ユーロ・ダンス・インプレッション

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KEBREA LOCK POPの頭文字をとってKLP。昨年フランスのナントで行なわれたコンクールDANSE ELARGIEで3位に輝いたグループで、テアトル・ド・ラ・ヴィルでの新作上演権というご褒美を手に入れた。ソファー兼ベッドのマットレスしかないロフト。外にはフェンスという、いかにもアメリカの町外れ(ブロンクス辺りか?)で繰り広げられる若者5人の物語。スクワットしているのだろうか、家に入るのにも暗号がいるみたいだし、やたらと外を警戒している。足音が聞こえたら、さっと天井にへばりつくとか、部屋の隅に隠れるとか、これから何か起りそうな雰囲気。最初の2人は子分のようで、幹部3人が入ってくると雰囲気はがらりと変わる。子分のうちの1人をいじめ、ちょっとリンチを加え、それがすむと茶色の紙袋に包んだ怪しい酒を飲み回す。酒に溺れ、酔いがまわると心の奥に潜んでいたものがムックリと起き上がる。空虚、倦怠感、ジレンマ。ロフトの上に立つ男と、床からぶる下がる男がまるで鏡のように踊る構図は面白いし、大量の白い粉が思いがけないところから落ちて煙が舞ったり、前述のリンチも男の身体を時計の振り子のようにゆっくりと倒すだけでそれをイメージさせてしまうなど、良くできたシーンはいくつかあったが、欲を言えば後半がよくありがちな各自のソロになってしまったのと、いじめにあった子分がいつの間にか親分と対等で仲良くなっていたのが(少し考え過ぎかもしれないが)気になったので、ストーリーの詰めを考え直すとよいのではないかと思う。ラストのドラムに合わせてひとつずつライトが消え、最後に客電がつくのはアイディアもの。(9月7日アベス劇場)

毎年3週間に渡ってひとつのカンパニーを招待するLES ETES DE LA DANSE PARIS。今年は7月にマイアミ・シティバレエ団を招聘し、第2プログラムとしてドミトリ・クリモフ演出によるミハイル・バリシニコフとアンナ・シニャキナが演じる、イワン・ブーニンの「IN PARIS」が上演された。バリシニコフがバリバリと踊るという期待ははずれてしまったが、彼はやっぱり一流の舞台人だった。これは、芝居というより、言葉の多い身体表現劇といった方が良いのかもしれない。戦争が終わり、将校だった男はパリに移り住み、孤独な老後を過ごしている。ある日出会ったウエイトレスの女性に恋をし、デートを申し込み、久々に高揚した日々を過ごす。しかし見た映画のせいで妄想につかれ、地下鉄の中で死んでしまう。バリシニコフは役者としても素晴らしく、アクセントのほとんどないフランス語でしゃべっていた。ロシア出身のメイドと出会ってからはロシア語となったが、ロシア出身のバリシニコフとしては、祖国を離れて暮らす主人公と彼自身の歴史に重ね合わせるところがあったのではないだろうか。最後に見せた闘牛士を思わせる踊りが素晴らしい。シャープで、小さな動きでも細かいニュアンスを最後列の客席にまで伝える存在感には脱帽する。また、クリモフの演出も素晴らしく、舞台前面からホリゾントに上がって行く台詞の文字達、回り舞台の薄っぺらな装置。その後ろで全く手作りの音を奏でる役者達。タクシーも薄い1枚の板なのに、窓が開き、ドアが開き、横に座るシンヤキナが見える。デートを前にドレスを選ぶ女の手には白いエプロンが1枚あるだけ。これがバッグになり、スカーフになり、さんざん悩んだ後、一瞬の間にグレーのドレスに早変わり。出演した役者達も、踊るように演じ、歌い、楽器を奏で、擬声音を出しながらパントマイムを演じるという多才ぶり。心の中の独り言はマンガのト書きパネルが出て来るお茶目な演出も気に入った。必要なところには必要なものだけを置く演出は、簡単そうに見えてなかなかできる技ではない。私は満足して会場を出たが、バリバリに踊るカンパニーを紹介し続けて来た「パリダンスの夏」が演劇作品を上演したことと、昨年のこのフェスティバルでバリシニコフがアナ・ラグーナと素晴らしい踊りを披露してくれたのに続き、今回も踊ると信じて見に来ていた観客が大多数だったため、客席には失望感が漂ったのは残念だった。(9月8日フェスティバル・パリ、ダンスの夏/国立シャイヨー劇場)


(C)Maria Baranova

毎回強烈パンチを食らうDV8ロイド・ニューソンの作品。作品が始まってすぐに発せられた質問「タリバンより優れていると思っている人、手を挙げてください」。この言葉が語るように、これは、イスラム教と過激派に対する強いメッセージだった。教室を連想させる四角い部屋。片足を上げ、頭を下にした男が壁にもたれながらくねくねと動き、その動きとは関係なくタリバンを語る。今度は別の男が鏡に文字を書きながら話し、鏡の一部が画面となって集会の模様を映し出す。首をかくかくと動かしながら語る男、窓の向こうから頭と肩を動かしながら語る男、リズムのある軽い音楽と単純な動きとは対照的に過激な内容をさらりと語る。イスラムの人とイスラム教。人種差別と性的虐待。10代で強制的に結婚させられた女性の多くは、虐待され、自殺するそうだ。強制結婚を逃れた人の、その後の逃亡に近い生活、イスラム教の非人道主義を批判した映画を作り、2004年にアムステルダムで殺されたテオ・ヴァン・ゴッホの助手の話、そして殺害時の詳細な描写。冠婚葬祭時にしか宗教に触れない私にとっては、宗教の恐ろしさがわからない。宗教や慣習を批判したり、人道主義を訴えたりして殺された人たちの名前と顔写真が舞台を埋め尽くす。モスクの中での礼拝の隠し撮り。モスクでは祈りを捧げるだけでなく、マインドコントロールも行なわれているのか!? イスラム教に対する英国政府の対応と国際会議の模様。各大臣の発言には唖然とさせられる。宗教と政治は一体なのだ。訴える女と、それを否定する会話を遮るかのように奪われたマイク。終わりのない議論と、もしかしたら口にしない方が身のためなのかもしれないという不条理な疑問を残して作品は終わった。(10月3日テアトル・ド・ラ・ヴィル/フェスティバル・ドートンヌ)


(C)Olivier Manzi

今年1月にシューレーヌのシテダンスで既に見ていたが、何度見ても楽しめる作品で、賞味期限はまだまだ先だ。学校が舞台で、どのクラスにもいそうなガキが8人。先生に隠れてのいたずら、カンニング、休み時間のバスケットボールなど、自分の子供の頃の思い出と重ねてみたりする。ダンサーがアカペラで歌いながらの踊りも良いし、ショパンのピアノ曲での踊りの不似合い具合もおしゃれ。欲を言えば後半がソロの羅列になってしまい、前半の構成の緻密さに比べて平坦になってしまっているのがおしい。でもクレテイユの大舞台で目一杯楽しんで踊るのを見ると、こちらまで元気になる。(10月4日クレテイユ・メゾン・デザール)


(C)LaurentPaillier

ロザルバ・トーレス・ゲレーロは、ローザスで活躍した後、2005年にバレエC・ドゥ・ラ・Bに移籍し、アラン・プラテルの作品に出演しているダンサーだ。数年前から自分の中にあるものを掘り下げているように見受けられたが、その結果がこの作品となったのだろう。今回彼女が、演出、振付け、ダンスそして歌を、映像などの美術をルカ・ラカスが担当した。ギターをつま弾く音とエコーのかかった声が次第にはっきりと聞こえてくる頃、毛むくじゃらの黒い塊が動き始めた。 壁に数珠のようにつながった茶色のモチーフが映し出され、そこにぼんやりと人影が見える。閉じ込められた亡霊がこちら側に来ようとしているようだ。と同時に舞台中央の黒い塊から手が出てきた。これも悪魔の手か? その手から生まれてきたのがロザルバ。上半身を黒髪で覆い、足だけがにょっきり出ているのはダチョウのようだし、獅子舞にも見える。その黒い物を脱ぎ捨てた裸のロザルバの横の壁に、日本人の舞踏ダンサーが丸まっている。ロザルバの背中に映る彼女の映像。その後ろの壁に舞踏ダンサーが映る。決して美しいとは言えない身体、それが、上半身は前向きで下半身は後ろ向きに映るから、奇妙な動物に見える。胸の下にお尻があるというのは、気持ちが悪い。軽いロックの音楽に変わって、ロザルバが激しく踊り始めた。後ろの日本人とコラボしているようだ。そして自分の身体にもう1人の自分を映し出す。自分の中の別の自分。これは、映像の中で踊っていた渡辺うい子の、子供とも女性とも老婆とも言えない不思議な存在から再発見した、もう1人のロザルバなのだと思う。(10月5日国立シャイヨー劇場)

セルジュ・リファールが1950年に創作した「PHEDRE」と、アレクセイ・ラトマンスキーの「PSYCHE」が上演された。どちらもギリシャ・ローマ悲劇詩に基づいた作品だが、60年前に創られた作品と新作を並べたことは、バレエの歴史を辿る意味でも興味深い。まず、リファールの「フェードル」。ジャン・コクトーが台本・美術の指揮を執った作品だ。幕も再現してあり、レトロな絵に50年代にタイムスリップした感じ。作品は、マイムを取り入れたバレエで、1枚の絵を見ているように劇的なシーンがポーズで語られる。唯一流れのある振付けでほっとさせてくれたのが、エノーヌ役のアリス・ルナヴァンド。ダンスのテクニックより、演技と存在感で見せるので、いつもとは勝手が違う。そんな中でイポリート役のカール・パケットが素晴らしかった。ちょっとした目の使い方、微妙な角度の取り方で少ない動きの中から多くを語っている。マリー=アニエス・ジロはさすがの存在感でフェードルを演じていたが、個人的好みからして、彼女にはダイナミックで流れるような振付けの作品を踊ってもらいたい。とはいえ、当時の前衛的なバレエがどのようなものであったかを知るには興味深い作品だったが、技術的にも飛躍的に発展した現代のバレエ作品に見慣れてしまった観客には、少し古くさく感じられてしまったようだ。


「フェードル」(C)Agathe Poupeney/Opéra National de Paris

そして第2部がアレクセイ・ラトマンスキーの新作「プシシェ」。ラトマンスキーはニューヨークのアメリカン・バレエ・シアターの振付けも手がけている。冒頭でしなやかに腕が動いた瞬間、現代に舞い戻って呼吸ができたような錯覚に陥ったのは、振付けそのものがもたらす時代のせいなのだろうか。ただ、プシシェを踊ったクレールマリー・オスタは、悪くはないが特別驚くほどの魅力に輝いていなかったし、エロス役のマチュー・ガニオの演技が取ってつけたようで、2人の間にあるはずの強い絆が感じられなかった。死者の世界を連想させる夜の森を描いたホリゾントの絵画は美しかったが、さらりと流れすぎるような振付けのせいか、感動を呼ぶまでには至らなかったのが残念だった。公演は生き物なので、今日は何かが上手くまわらなかったのだろうか。(10月6日パリ・オペラ座ガルニエ宮)


「プシシェ」(C)Agathe Poupeney/Opéra National de Paris

これが1984年にニューヨークで創られた作品だったとは知らなかった。2人が最初に振り付けた作品で、しかも彼らが実際に踊ったという。それを今回は、この作品ができた頃に生まれたという若いダンサーが踊った。何という年月の隔たり! 27年も経っているのにちっとも古くないのは、80年代のフランスのヌーベルダンスには心底力があったのだなあと思う。「Pudique Acide」は、お揃いの衣装で、ユニセックス。膝下ズボンにスカートはいて、逆立てた髪が悪ガキ風。でも、踊りは妙にまじめな対抗意識で綴られる。 ゆっくり絡まり、片方が崩れるように倒れ、それをもう片方が引き上げる。相手に頼っているような、試しているような。床にずり落ちた相方を根気よく引き上げると、今度はもう片方の番だ。しばらく続いた後、突然変わったリズミカルな曲に合わせてステップを踏む2人。自由奔放で、気心の知れた仲の2人を見るのは微笑ましい。バレエのパを真似してみる。へたうま感が妙にいい味を出している。アクロバットも映像もないけれど、2人のコミュニケーションと日常の動きの組み合わせだけでこれだけ見せてしまうとは!


「PUDIQUE ACIDE」(C)Marc Coudrais

「エクスタシ」は、チュールのロングスカートがはみ出るベージュのトレンチコートをまとっている。白く塗った顔を隠すように動き、正面を向いた時には照明が落ちるなど、ダンサーに当たるべきライトをわざと消しているところが当時のアバンギャルドを思い起こさせる。グラビア撮影のモデルをパロッたシーンや、オペラの曲に合わせた素人風の激しい踊り。白いファンデーションが汗ではげ落ち、スカートを脱ぎ、コートを脱ぎ、ボディーの上に白いジョーゼットの布をかぶって天使のようになった女性の周りを、女の服を持った男がおろおろしながらまわるのも微笑ましい。最初から最後まで踊りっぱなしのエネルギーには脱帽するし、2人の駆け引きに目が離せない。変な計算がなく、面と向かって構成しているところが何とも良い。数ヶ月前に見たジャン=クロード・ガロッタの、「ダフニスとクロエ」もそうだったが、80年代のヌーベルダンスを再考する時期なのかもしれない。(10月11日テアトル・ド・ラ・シテ/フェスティバルドートンヌ)


「EXTASIS」(C)Marc Coudrais

人には経験があって、その上での見解と思考があるし、芸術の中でも特にダンスは自由に解釈ができるものだと思っている。この作品に限らず、賛否両論をもたらす作品は数多ある。シャルマッツは父親となり、子供の持つ無限大の可能性に触発されてこの作品を創ったのだろう。クレーンが動き、舞台の天井にまで張り巡らされた綱が音を立ててほどけるのは、大掛かりなおもちゃみたいだが、そのロープの先に人が結びついているとは思わなかった。死体のように動かない人。それを機械が寄せ集め、ベルトコンベアーに載せて再生させ、セックスさせてできた子供達。子供は大人のなすがまま。親のエゴとも、子供虐待とも見れるけれど、同時に子供の身体のしなやかさに驚く。ボリスが「肉体的にエネルギーを消耗させるような振付けはない」と言っているように、 子供達が見事なまでに身体を脱力させているのには目を見張る。これだけ振り回されたら身体も緊張するだろうに。身体が抵抗せず、正しい動きをすれば、大人が子供の上に乗ってもつぶれないのだ。大人も子供のように、目をこすったり、バーンバーンと言いながら床を踏み鳴らしたり、一緒に遊ぶ姿は子供そのもの。ブレーメンの音楽隊のように、バグパイプを吹く人の後についていったあとは、子供が大人を動かす番。1人の大人を動かすのに5人掛かり。それでも持ち上げたり、ひきずったりするのはガリバー旅行記みたい。子供の奔放な動きの向こうにシャルマッツの心理が見えて面白い。彼はその時に自分が感じているものをためらいなく出す。しかもとことん追求しているところが好きだ。「ダンスの美術館」と称し身体表現を追求する彼を長い目で見守りたい。(10月12日テアトル・ド・ラ・ヴィル/フェスティバル・ドートンヌ)


(C)Boris Brussey

叫び声を聞くというのは、本当に疲れる。80分のうち、5分に1回は叫んでいたと思う。ハイな笑い声、泣き叫ぶ声、返事のない相手を呼び続ける叫び、かけ声、大声でのおしゃべり。見ている側の神経を逆なでる。多分やっている方が楽だと思う。大声にイライラし、しかも感情がコロコロと変わるのにもついて行けない。一体何のために? この作品はモスクワで出会った5歳くらいの子供に触発されて創ったとプログラムに書いてあったのを思い出した。そう、彼女達は子供なのだ。全ての大人は子供だった。子供は正直だし、感情を隠すことができずにストレートに吐き出してしまうことが多い。大人も子供の部分を持っているはずだ。何かの際にたがが外れたように吹き出す感情。理性では押さえきれないもの。思っていることを素直に出せたらどうなるのだろう。心の奥底に潜んだ感情の本質を見たような気がした。不快感の向こうに見える心理を計算して創ったのだとしたら、黒田育世はたいした肝の持ち主だと思う。(10月13日パリ日本文化会館)


(C)Hideto Maezawa

黒のドレスと風変わりな帽子をかぶり、斜に構えて客席を見つめる女性。気高く、しかしその冷めた目線が別の次元の人のように思わせる。そう、森の女王。日の当たらない闇からすべてを見透かしているような、そんな雰囲気が漂う。25分の作品の間、ほとんど移動せず中央で踊るが、彼女の持つ雰囲気が好きだった。ムッスー/ボンテ・カンパニーで踊っているように、心理描写のできるダンサーだ。プログラムに「プロテウスのように絶えず形を変えるソロ」と書いてあった。なるほど。(10月14日エトワール・デュ・ノール劇場/フェスティバルavis de turbulences)

この長ったらしいタイトルを訳すと、「カルメン・ドラゴンとルイ・ロワゾーの実際にあった、そして本当に偽りのない愛の物語」ということになる。タイトルから察する通り、コミカルな作品だった。街で見かけたら絶対にダンサーに見えない小太りのスキンヘッドのおじさん(失礼!)が、緑色の膝上までの上着を着て、タンデュやピルエットを交えた見事なダンスをするのだが、時々相手の女性にちょっかいを出し、振られてはダンスを続け、転び走り回る。もう1人の女性は、上手いんだか下手なんだか、すごくすてきな瞬間といやな瞬間がある不思議な存在の女性。この2人のどたばたともいえる演劇ダンス。時折挟み込まれる会話も面白いのだが、少しわざとらしい演技が気になって、腹の底から笑えなかったのが残念。ウェーレはこの劇場をレジデンスにしているので、今年1年間で4作品を発表することになっている。1週間前にエピソード1を発表し、その続きとして今日の公演があったのだが、予定されていたジル・ヴェリエップの新作がダンサーの怪我で中止となったため、急遽ウェーレのエピソード1が再演されることになったのは、私にとってラッキーだった。1を見ずにはやっぱり2章は理解できないでしょ。1章では、最後に男はピストルで殺される。カルメンみたい。そして、2章では、「そうだ自分はこの前の章で殺されたんだ。」というところから始まる。2章では女性は天使になっていた。次はどうなることやら。(10月14日エトワール・デュ・ノール劇場/フェスティバルavis de turbulences )

空中に浮かび上がる透明の球体の正体は宇宙服を着た人達のヘルメット。中央のオレンジ色の小さな丘の上をフワフワよたよたと歩く人たち。動物的というか、何も考えていないというか、理性のかけらも感じられず、人に歩み寄っては抱き合ったり、お尻を触ったり、けんかしたり。ヘルメットが呼吸で曇って来た頃、ガラス面を開けて顔を見せる。それまでの無機質な音と打って変わって明るいポップス曲で泣き出す人たち。かと思うと何かを求めて走り寄り、あげくは宗教ダンスみたいなのが始まる。中央の教祖様とトランスに入る人と周りの群衆。終わればにっこり笑ったポーズ写真。場面転換をして上手前のミニチュア人形を動かしながら、相手の欠点や嫌いなところを告白。だんだんエスカレートして国籍まで否定してしまう。ポルトガル人だから嫌だし、塩ダラの匂いがして臭いとか、なんでもありのこき下ろし。あまりのナンセンスさに、嫌悪感を超えて会場は笑いの渦。かわいい顔の女性ダンサーがスキンヘッドのカツラで男の声での独り言にも大笑い。それが終わると欠点を前面に出す自己紹介。そこにのっそりと現れたマルコ・ベレッティーニ 。ずっと後ろ向きで座っていたのが立ち上がり、中央でみんなに挨拶する。「マナマナ、マナマナ?」。不思議な言語で話し、それぞれが散って行く、意味のないノンダンス作品。それなのになんだか好感が持てるのが不思議だ。 (10月24日バスティーユ劇場/フェスティバル・ドートンヌ)


(C)*MELk.Prod

待ちに待たれたジャン=ギヨーム・バール振付の新作「ラ・ソース」は、評判通りの素晴らしい作品だった。もともとは1866年に創作されたものだ(台本シャルル・ニュイテール、振付けアーテュー・サン=レオン)が、1873年のオペラ座の火事(当時は現在とは別の場所にあった)以降上演されることはなく、忘れ去られた作品だった。約20年前から温めていた構想が、オペラ座のダンス部門の芸術監督であるブリジット・ルフェーブル氏の協力のもとに衣装がクリスチャン・ラクロワ、美術がコメディ・フランセーズのエリック・リュフ、ドラマツルギーがやはりコメディ・フランセーズのクレモン・エルヴュー=レジェという豪華な顔ぶれで実現した。台本をもとに、サン・レオンの振付けにとらわれることなく、バートが新作を創る気持ちで創作したというこの作品は、1992年のヌレエフ以来のロマンティックバレエ作品の誕生とまで賞された。物語は、コーカサスの山間の泉を舞台に始まる。皇帝に輿入れするヌーレッダの一行がこの泉のところで休憩を取った時に、ヌーレッダに一目惚れした猟師のジュミル。誰も取ることのできなかった岩の上の花を彼が勇敢にも取りアプローチするも、ヌーレッダの兄のモズドックに阻まれ、大けがをしてしまう。全てを見ていた泉の精であるナイラとそのパックたちがジェミルを介抱し、彼の望みをかなえることを約束する。皇帝の城に入り、一時はヌーレッダの美しさに満足した皇帝だったが、そこに現れた妖精ナイラに惚れ込んでしまい、ヌーレッダの輿入れを拒否してしまう。すっかり失望したヌーレッダにジェミルが愛を告白するが、兄のモズドックに見つかり、殺されかける。ここは妖精の魔法が効いてその瞬間に時が止まり、ジェミルはその場を去ることができた。ここに来て初めて泉の精ナイラはジェミルを愛していることに気がつき告白するが、ジェミルはヌーレッダを愛しているのでナイラの愛を拒否したため、ナイラは自分の象徴である岩上の花をジェミルに渡し、その花の威力でヌーレッダの気持ちをつかみ取るようにしむける。しかし、それはナイラの命を捧げることになり、ジェミルがヌーレッダの愛を得た時に、ナイラは静かにその命を失うという物語。私が見た公演の配役は初日と同じで、泉の精ナイラにリュドゥミラ・パリエロ、ジェミルにカール・パケット、ヌーレッダにイザベル・シアラヴォラ、モズドックにヴァンサン・シャイエ、ナイラの妖精ザエルにマティアス・エイマン、皇帝にクリストフ・デュッケンヌ、皇帝の愛人にノルウエン・ダニエルだった。最初から最後までその驚異的な跳躍力と身の軽さで観客を魅了したのがマティアス・エイマン。ちょっとお茶目なパックとしての演技力も完璧で妖精そのものだった。観客の目がどうしてもエイマンにいってしまい、少々影が薄かったカール・パケットだったが、要点を押さえた演技と安定したテクニックはさすがのエトワール。リュドゥミラ・パリエロは、役柄上そして振付けの面で派手なパがなかったからか、シアラヴォラに押され気味に見えたのだが、彼女の控えめな演技は泉の精ナイラの純粋さと優しさだとわかるにつれて、引き込まれていった。また、彼女のつま先にまで神経の行き届いた丁寧な踊りと、美しく流れる腕の動きはエレガントで可憐な妖精だったし、ラストで少しずつ衰弱し、死を予感しても愛する人の幸せを望み、かすかな微笑みさえ浮かべて死んで行くまでの演技が涙を誘った。ヴァンサン・シャイエのシャープな踊りが好きなのだが、今回は力が入りすぎていたのか、いつもほどの精彩に欠けていたのが残念だった。振付けは、評判通り新たなるロマンティックバレエの誕生といえるほど美しいもので、高度なテクニックも入っているのだが、それを前面に出さず、物語を主にしたのが作品を幻想的に仕上げていたと思う。また、装置も斬新で、たくさんの太い綱がメイン。絡まる綱が森を創り、中央に垂れる太い綱の塊が泉を連想させ、 編まれたロープに泉の精の花が咲いている。皇帝の城では柱と壁を連想するように均等に綱が降りている。従来の絵画の背景とは全く違う、斬新な美術にも高い評判が立っていた。さて、鳴り物入りのラクロワの衣装は、きらきらと輝く美しいもの。シックな色合いの輿入れの一行の中で際立っていたのが、ヌーレッダの衣装。濃いピンクのブラウスにトルコブルーのスカートという、下手すれば下手物になりそうな色使いだったが、そこはラクロワ、違和感のない衣装に仕立てていた。泉の静と妖精達の白い衣装は、あくまでも軽やかに清楚で、エルフ達パックの衣装は緑とブルーの全身タイツで顔まで衣装と同じ色。振付けと相まって小気味良い。皇帝の家の愛人と召使い達の衣装はオレンジ系の中近東風の衣装で美しかったが、スカートの下の薄いパンタロンが足を太く見せてしまい、ダンサーの足の美しさが感じられなかったのが残念だった。とはいえ、素晴らしいバレエ作品の誕生にガルニエ宮は沸き上がった。(10月27日オペラ座ガルニエ宮)(文中写真(C)Anne Deniau / Opéra National de Paris)


(C)Anne Deniau / Opéra National de Paris

パリに次ぐ大都市マルセイユにダンスセンターKLAP MAISON POUR LA DANSEがオープンした。これは、ダンサー兼振付家のミッシェル・ケレメニスが20年の構想を経て、マルセイユ市、地方自治団体、BNPパリバ銀行基金などの協力を得て10月にオープンした。このオープン記念特別公演は、休憩を含めて約3時間弱という大規模なもので、第1部はケレメニスの振付け作品6作品の抜粋を上演、1時間の休憩中は、ホールで飲食しながら歓談するも良し、大スタジオでの公演を見るも良し。第2部はアフリカのダンサーの作品を上演した。

「TATTOO」
これはケレメニスがマルセイユ国立バレエ団に振り付けた作品。黒のリノリウムの上の白い小さな正方形。その上にすっと置かれた緑のトウシューズがまぶしい。しなやかな流れの動きとオフバランスを取り混ぜたダイナミックな作品で、テクニックだけでなく男対女、女対女の無言の会話が作品に厚みを出していた。

「Faune Fomitch」
人間の身体を持った動物というのがこの作品のイメージで、1988年にケレメニス自身が踊った作品を、ジョゼット・バイーズのグループ・グルナードで活躍したトマ・ビルザンが再演。金髪の栗毛とあどけなさが残る顔、そして子鹿を連想させる小気味良い跳躍は、人間の身体を持った動物のイメージそのものだった。曲がドビッシーの牧神の午後だけに、どうしてもバレエの牧神の午後のイメージにとらわれがちだが、これは、エロスに目覚める前のあどけない牧神だろう。

「L'ombre des jumeaux」
1999年にライン国立バレエ団に振り付けたものを、マルセイユ近郊に本拠地を置くジャン=シャルル・ジルのヨーロッパ・バレエ団のレパートリーとして振付けし直したもの。影が人から離れないように、2人がつかず離れず、お互いを挑発して駆け引きをしているようなデュエット。ヨーロッパ・バレエ団の若くてシャープなダンサー、エリック・オドリゾラ=ソラリュスとサラ・リュポリに魅了された。

「サンドリヨン」
シンデレラは様々なバージョンがあるが、これはかなりコケティッシュ。ジュネーブ劇場バレエ団に振りつけられたもので、その抜粋を上演した。ふかふかの絨毯の上で気持ちよく寝ている少女のところに突然現れた天使。これが白い羽根つきのソックスと白いボックスパンツをはいて、裸の上半身にはキラキラ光る銀のスパンコールをつけた美男子の登場に、会場は一瞬あっけにとられたあと爆笑の渦。4人の天使達が皆若くてハンサムボーイなので、ホストクラブに迷い込んでしまったような錯覚。いやいやここはフランス、マルセイユだ。で、美男子天使に突然起こされたシンデレラも、何が起こったのかわからずきょとんとするのみ。最初はビビるも、持っていた白のジョーゼットの布が、天使の手にかかるとあっという間にドレスになってしまうものだから、打ち解けて楽しい時を過ごす。しかし、それもつかの間、24時の鐘が…。というところで今回は終わってしまった。これはどうしても全編を見たい作品。シンデレラ役は大田垣悠さん。


(C)GTG / Vincent Lepresle

「That side」
アフリカのダンサーの作品は、アパルトヘイトや内戦を訴えるものや、感情の密度が濃いものが多く、見ていてつらくなるので好きではないのだが、この作品にすんなり入れたのは、ケレメニスの構成の上手さだろうか。南アフリカのダンサー、ファナ・ツァバララが1994年にケレメニスのもとに5ヶ月間研修に来た後に創られた作品で、自由の国フランスから自国を振り返って何を思うかという話し合いからできた作品だという。 感情よりもダンスの振付けを前面にし、所々にアフリカンダンスのステップと恐怖、逃避、悲しみなどの感情表現をちりばめているだけなのは、かえって心の置くにしまっておいた記憶が見え隠れするようで、じわじわと彼の気持ちが伝わってくる。 照明も効果的に使われ、作る側の構成・振付けの上手さと、踊る側のコンテンポラリーダンサーとしての素晴らしい才能の融合に、会場からは盛んな拍手が送られていた。

ヘンリエットとマチス
これは、ケレメニス自身のカンパニーに振り付けたもの。画家がアトリエで構想を練っていると、壁の間から出て来たブルーの絵の具達。流れるような動きがマチスの筆の先をイメージしているのだろう。蛇腹の白い紙が壁となり、額縁となり、有名な「ダンス」の絵が仕上がるきれいにまとまった作品。

(C)Agnès Mellon

これらの6作品をつなげていったのが、女性ダンサーのコリーヌ・ブラン。プラダのデザイナーのアガタ・ルイズのデザインによるピンクのドレスがかわいらしいのだが、ブランはどちらかというとお茶目でいたずら好きで戯けもの。そんな彼女の幕間の踊りが微笑ましく、第一部を上手くまとめていた。
そして、最後にケレメニスのソロ。これはプログラムに載っていなかったので、突然客席から現れてポーズを取ったケレメニスに会場は一瞬の驚きと期待に緊張感が走った。バラの精をイメージしたソロは、優しさに溢れたもので、会場からは溜息が漏れ、同時にこの素晴らしいプロジェクトを実現した彼の功績に惜しみない拍手が送られた。

さて、休憩中に行なわれたEx Nihiloのデュエット「Apparemment」と「ce qui ne se voit pas」。彼らもマルセイユが本拠地で、日常をベースにした即興的踊りが気に入っている。「ce qui ne se voit pas」は、コンピューターを自分たちで操作しながら照明を変え、ビデオプロジェクターを移動し、ライトを動かす。壁や柱を利用した即興的な日常の動きの延長に見える街の風景、庶民の生活。生きるエネルギーや、出口のない悩みなど、少し屈折した若者の心象風景が好きだった。
第2部は、ビンセント・セクワティ・ココ・マントソーの「NTU」。彼は、アフリカの民族ダンスの伝承者で、シャーマニズム的な作品だった。厳かに舞台に登場し、緊張感を持ってステップを踏み、時に大声で笑い、泣き、叫ぶ様子は神がかり的。全身から汗が噴き出す熱演に会場は押され気味。こういうダンスは広大な大地のもとで見たいものだ。(10月21日 KLAP MAISON POUR LA DANSE) 

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