ユーロ・ダンス・インプレッション

2017年


2016年


2015年


2014年


2013年


2012年


2011年


2010年


2009年


2008年


2007年


2006年


2005年


2004年


©Rahi Rezvani

またもや打ちのめされてしまった。辛辣な社会批判を、55分の第1部、20分の休憩を挟んで後半30分という長さを、最後までテンションが下がることなく語り踊り続ける。この衝撃的な世界初演は、パリのラ・ヴィレットにてテアトル・ド・ラ・ヴィルとの提携公演として行われた。
黒くて高い壁の前にじっと立つ人。街角で音楽を演奏する人たち。先ほどまで踊っていた人が突然倒れ、生気のない体となって引きずられていく。生きているのか死んでいるのか。激しく動くかと思えば、瞑想するような禅の境地が広がる。ザッピングするように場面が変わり、世界のあらゆる地域で起こっていることを見ているようだ。戦争、平和、生と死。喜びあり、悲しみあり、諍いあり、密やかな楽しみがある。ひとつのシーンが多くを語り、連想させ、それが機関銃のように突き刺さってくるが、ベースは「死」だ。倒れては引きずられ、また倒れては引きずられ、まるで戦争の現場を見ているようだ。恋人を失ったことが信じられない男たちは、以前と同じように恋人と戯れる。しかし、彼女たちが自力で立つことはない。この胸が締め付けられるようなシーンの後には、引きずってきた体を無理やり椅子に座らせ、そこに「休憩」と書いた段ボールを突っ込んで、いたずらでもしているかのようにへへっと笑って消えた男たちがいる。男の首はだらりと後ろに落ち、身体はかろうじて椅子に引っかかっている。このショッキングな姿とダンボールにマジックで荒々しく書かれた「休憩」の字とのギャップに、笑いたいような笑えないような、席を立って良いのだかよくないのだか、戸惑う観客多数。「死」が日常となっている人にとって、現実はこんなものなのかと考えさせられた。しかし、考えようにも冷房が効かずに熱気ムンムンの会場に20分じっとしているのも辛いので、外に出て気分転換して戻ってみると、男は床に倒れ、片腕が舞台からだらりと落ちている。その横に陣取った楽団は、平和の象徴とばかりにメリー・ウイドゥの愛のワルツを奏で始めた。気持ちの良い音楽に、客席一同一緒に歌い出した途端、耳をつんざくような音。突然の爆音に叫び声を上げる観客。死んでいたはずの男は目を向いて顔を上げ、幕の向こうに一瞬のうちに消え、また舞台は混沌の世界となった。
グランド・ファイナルとは、世界終焉の日のことか。秩序は乱れ、死と隣り合わせで生きていかなくてはならない人々。同じ地球の別の場所では、平和を謳歌している人々がいる。じっと空を見つめている人がいる。しかしそれが現社会なのだ。
今回も、強いメッセージを発したホフェッシュ。そのイメージを見事に表現したダンサーたちにブラボー。(6月20日La Villette/Théâtre de la Ville)


©Rahi Rezvani

デニス・クーパー台本、ジゼル・ヴィエンヌ演出、そして俳優ジョナタン・カプドゥヴィエルの強力コンビによる、世にも恐ろしい物語「ジャーク」。
「殺人の手伝いをしないか?」
70年代にアメリカで起こった猟奇的殺人事件を題材にした作品で、演劇とわかっていても背筋がぞくっとするほどリアルな演技には、唖然とする以外なかった。
椅子に座った若者は、これは自分の体験談ですと静かに語りながら、両手に人形をきっちりとはめた。パンダのぬいぐるみが可愛い。しかし、その心は容姿とは全く正反対の、異常な人物だったのだ。
物語の異常性にも驚いたが、人形遣いにはもっと驚いた。ひとりの人間の右手と左手とは思えないほど、ふたつの人形が全く異なる動きをする。残忍な殺人者と、それを否定する少年。その動きの細かなこと! 右手の人形と左手の人形と、そこに真ん中の本人も交えてなので、ひとりの役者が3役を同時にこなしていることになる。ひとつが肩にすがって泣きつく一方で、もうひとつの手の人形は、膝の上の別のマリオネットを虐待する。カンカンカン、ズーハーズーハー、ギコギコ。たったひとりの役者から、どれだけたくさんの人物の声と効果音が発せられたことだろう。ほとんど口を動かさないから、いかにも人形が言葉を発し、スピーカーから効果音が流れているかのような錯覚に陥るが、そうではない。全てひとりの演者ジョナタン・カプドゥヴィエルの口から発せられているのだ。クチュクチュクチュ、長い繰り返しの後に、その口からだらりと落ちた白い泡の液。殺人行為に興奮して自慰し、出した精液! 息を飲む声が客席のあちこちから聞こえた。「自分と親友」は殺人を行うのではなく、手伝うだけだと嘯く。そしてセックス。こんなことが実際に起こったのだろうか。18歳未満お断りの理由がよくわかる。死体を見て初めて、その女のことがずっと好きだったことに気がついてももう遅い。しかしこのことで若者が少し正気に戻ったのは救いだった。
なんとも不愉快な台本なのに、のめり込んでしまった。さすが、長年共同で作品を作っているジゼル・ヴィエンヌとデニス・クーパーのコラボレーション、そして何より、ヴィエンヌの作品を完璧に理解しているジョナタン・カプドゥヴィエルの演技力。徹底した役作りと高度な技術に、ただただ見入るばかりだった。
2008年初演の作品は世界を周り、静岡のSPACでも上演されている。年月を経て、さらなる磨きをかけた異様な世界に、心が重くなりながらも、秀作と絶賛したい。(6月22日CND PANTIN)


©Alain Monot

しばらくご無沙汰していたパリ日本文化会館。ちょっと目を離したすきに、面白いことをたくさん企画していた。オペラ座のエトワールだったジェレミー・ベランガールと渋谷慶一郎のコラボ作品を見逃したのは、未だにずーっと心残り。今月は逃すまいと、早々と予約した。
森下真樹、川村美紀子、川口隆夫という独特な世界を持つ振付家3人のソワレは、CND企画のCAMPINGと提携して行われた。

最初の森下真樹の「コシツ」は、10分の作品だが、内容は濃い。2メートル四方ほどを白いテープで囲んだ小さな空間で、たわいもないことが綴られる。くつろいでいるようなそうでないような。プログラムに書いてあるように、規律でがんじがらめになった社会では、トイレとエレベーターの中が唯一自由でいられる場所なのかもしれない。確かに誰からも見られていないという確信があった時、ひとりでおバカなことをすることがある。意味のないポーズをとってみたり、ハチャメチャに踊ってみたり。森下の場合はさらに突拍子もないことが起こる。まさかスカートの下からペットボトルが出てきて、それでうがいをしたり、ランニングとスカートの服が一瞬にしてグリーンのワンピースになったり。コロコロと変わる独り言がほほえましく、森下独特の世界がパリジャンには新鮮に映ったようだ。
森下が会社員だった時に、エレベーターの中に監視カメラがあるとは知らずに踊っていて、会社を辞める時に管理人に残念がられたという。この管理人、森下の踊りを独り占めにできたなんて、全く贅沢なことだ。


森下真樹 ©Jean Couturier

川村美紀子は2012年の「へびの心臓」を再演。のっけから超スピーディヒップホップ的な動きでガンガン押してくる。身体中の関節がものすごい勢いで動くのは、生きる人体解剖図を見るよう。このエネルギーが最後まで続くからすごい。よくもここまで!だ。この驚きの後、音楽を細かく分析して振り付けているのが見えてきたらもっと面白くなった。ちょっとした楽器の音を逃さずに捉えて、小さな振りを入れる。かと思えば、ジャパンポップスのサビの部分では、バックダンサーごときのシンプルな振りをし、体をくねらせての熱唱の後はいきなりスポットを浴びたキューピー人形に歌わせる。ノリノリの曲なのに、ちっとも楽しそうな表情をしないのがまた可笑しい。読経の木魚は確かに規則的なリズムだけれど、これでヒップホップを踊り、カーンという鐘の音でパンチを決めて終わるとは!法曹界から苦情が来ないことを祈る。いや、宣伝してくれてありがとうと言われるべきかもしれない。交響曲も川村の手にかかれば踊る楽譜そのものになったのはさすがだ。どんな曲をもダンスに書き換えてしまえる人なのだろう。一つの四角の中で踊った後は、ゆったりした呼吸音に浮かぶように移動して、次のスポットへ移って、またわさわさと踊り出す。不思議な夢を見ているようだった。


川村美紀子 ©Jean Couturier

川口隆夫の踊りを久々に見た。ダムタイプで踊っている時から見ていたけれど、パフォーマーとしての存在ではなく、ひとりの人間としての姿が浮き上がっていたのは、非常に興味深いことだった。今回上演した「グッド・ラック」は、指輪ホテル、羊屋白玉演出の「EXCHANGE」の中で踊られていたものがベースという。この作品を見ているにも拘らず、全く違う印象を得たのは、川口の内面が以前にも増して奥深く描かれていたからだろう。自己と対面して内面を深める追求がとても良い形で実っていた。カラスの声、町の騒音をバックに、ひとりの男の人生を描く。それはもしかしたら誰も気づいてくれないほどの些細な人生かもしれない。しかし、彼は生きている。喜びも悲しみも、世間の誰とも同じように感じている。ただ、ひどく孤独なのだ。世間が見捨てたのか、自分が世間を見捨てたのか。その心はどこまでも遠くへと運ばれ、海の向こうに流されていく。
「大野一雄について」という作品が欧州ツアーをし、大変な評判になっている。大野一雄の作品を見たこともなければ、舞踏にも興味のなかった知人がこの作品を見て方向転換。舞踏の資料を集めまくっている。川口の今までの体験が、熟成期を迎えたようだ。(以上3作品 6月23日パリ日本文化会館)


川口隆夫 ©Jean Couturier

コンセプチュアルダンスあるいはノンダンスや舞踏系の動きの少ない作品に見慣れた目には、シャイヨ国立劇場の大舞台を生かした作品は非常に新鮮だった。
ゆっくりと歩いて出てきた黒いスーツの3人が緞帳の前に立つと、静かに幕が上がった。白いリノリウムの上の3つの黒い姿が、折り重なるように踊る。「Safe as Houses」の始まりだ。しばらくすると、舞台の奥行きほどの長さのある大きな1枚の白い板が、時計の針のように周り、黒服の3人のダンサーが壁に押し流されると、代わりに白い衣装のダンサーが現れた。黒から白へ、消えた人と現れた人。この一瞬の変容に思わず目をみはる。どこに消えて、どこから出て来た? 回転する壁のほんの一瞬の死角を緻密に計算しているなあと感心すると同時に、時空間の隙間を作り出す四次元的な壁の圧倒的な存在が不気味に見えてくる。しかし、迫り来る壁を気にもせず、大胆に踊るダンサーは、それ以上の存在感を持っていた。シャープでダイナミック。NDT独特のしなやかさと強さに引き込まれた。イリ・キリアンに見出されて振り付けを始め、すでに多くの作品をカンパニーに提供しているソル・レオンとポール・ライトフットの作品。


「Safe as Houses」©Rahi Rezvani

次の「In the Event」は、今注目の振付家クリスタル・パイトの23分の作品。パイトの作品には強いメッセージがある。生と死。現社会を体で感じ取って作品を作っているというだけあって、多くの国の現状を連想した。諍い、悩み、恐怖、怒り、ロボット化する社会、グローバリゼーション…。そんなイメージがコマ送りのような動きや、同じ動作の反復、影などで綴られる。戦争もあれば、町の小さな喧嘩もある。心休まるひと時もある。同じ時刻に違った場所で多くのことが起こっている。次々と変わるシーンは、そんなことを連想させた。多くの出来事の中で人は生き、それが終結するように人も去る。淡々とムーブメントで構成したことが、かえって現社会への批判となって焼きついた。


「In the Event」©Rahi Rezvani

最後は再び、ソル・レオンとポール・ライトフット振り付けによる「Stop-Motion」。1枚の大きな女性の肖像画。絵画だと思っていたら、ゆっくりと動いている。この女性の人生の一場面を見ているように、同じような黒いドレスの女性と、真っ白なスーツの男性たちが絡む。いつのまにか白い粉が舞台に撒かれ、ダイナミックな動きが、白煙とともに舞い上がり、幻想の世界を描くが、スモークとは違う重さに、この女性の心の重さが感じられた。
初見した日には、鳴海玲奈と高浦幸乃が出演していて、鳴海玲奈が3作品、高浦幸乃が2作品を踊っていた。鳴海玲奈は、パリ・オペラ座が招聘したスウェーデン王立バレエ団の「ジュリエットとロメオ」(マッツ・エック振付)でジュリエットを踊っている。この作品でブノワ賞を受賞した木田真理子とは一味違うジュリエットが強く印象に残っていのだが、この日もシャープな踊りを見せてくれた。特に、クリスタル・パイトの「In the Event」では、 小柄な体を生かしたリフトと、他のダンサーに引けを取らないダイナミックな踊りが印象に残った。(6月24日シャイヨ国立劇場)


「Stop-Motion」©Rahi Rezvani


レティティア・ガロニとタケル・コスタ ©Agathe Poupeney/Opera national de Paris

パリ・オペラ座の今シーズン最後の演目は、ガルニエ宮で「ラ・シルフィード」、オペラ・バスティーユではケースマイケルの「ドラミング・ライブ」だった。日程の都合で両方は見られなかったので、若い力を見にバスティーユへ向かった。
ホリゾントに沿って置かれた打楽器を、アンサンブル・イクテュスのメンバーがポンと叩いた瞬間に、ケースマイケルの世界が始まった。上手でひとりでパーカッションをしていた人に、ひとり、もうひとりと加わり、3人の連打。しばらくすると別の人が彼らの後ろを通り越えて位置につき、鍵盤打楽器を叩く。その後ろを通過したのはコーラス。上手から下手へとミュージシャンが移動することで時間の経過を感じさせる。その世界とは別に、ダンサーたちは円を描き、直線に進みながら交わり、打楽器の音が重なるように、数人の踊りが交差し、離れ、また別の動きが生まれては消えていく。ひとつの舞台の中のふたつの世界は関わりあうことなく、別々の世界を築いているけれど、それが空中で混ざり合う。ダンサーの動きも、ひとりが踊るのを見つめ、しばらくするとそれとは関係がないかのように動き始めるのだが、どこかでつじつまが合っている。個々を見ればそれぞれが独立しているのに、全体はひとつにまとまっていると感じるのは、ケースマイケルの手腕。それに、ダンサー同士の無言の会話が見えるのが心地よい。ローザス版とは印象が異なるけれど、この日にメインで踊っていたレティティア・ガロニが素晴らしかった。もう少し力が抜ければさらにダイナミックになるだろうと欲張りな注文をつけるが、これだけ自由に体が使えるダンサーがいることが頼もしい。カトリーヌ・ヒギンスは、体が大きいこともあり。その存在感は抜群。女性の第1キャストに藤井美帆が出演していたのを後で知ったが、プログラムにリハーサル中の素敵な写真が掲載されていて、以前に「コンテンポラリーより古典作品が好きです」と言っていた彼女に、新たな可能性が広がっているようで今後が楽しみになる。
ケースマイケルの振り付けを踊りこなすのは簡単なことではないが、ここまでやってくれたことに、パリ・オペラ座バレエ団のコンテンポラリーのレベルの高さを確信した。(7月3日オペラ座バスティーユ)


©Agathe Poupeney/Opera national de Paris


藤井美帆©Agathe Poupeney/Opera national de Paris

昨年のダンス・エラルジーで1位に輝いた「Déplacement」は、シリア難民の日常を作品にしていた。それに続くこの新作は、さらに世界に広げて、政治や肉体の暴力にあふれた現社会を、2本の紐を通して、無言の叫びとして表したかったという。
舞台に無造作に置かれた台、そして人。それらは紐で繋がれていて、ひとりの動きによって、台や人が引っ張られる。それを引き返す人。離れた場所にいるはずなのに、思わぬところでつながっている。体が宙に浮き、落とされる。意思とは関係なく操られる人は、抵抗すらできない。この静けさの中で響く歌声。それまでの廃墟のような空間に響く人の声が暖かい。ただ、後半はこの女性の歌とセリフがほとんどになってしまい、空間や動きの面白さが最後まで続かなかったのが残念だった。(6月22日CND PANTIN)


©Gilles Delmas

「まだ見たことないんですか?」「ダンスじゃないから見逃していた」と言い訳をしながら、誰もが面白いという小林賢太郎の作品を見にいくことにした。パリ日本文化会館は、こうして日本のナウを紹介してくれるから嬉しい。
「ポツネン氏の奇妙で平凡な日々」。噂通り、確かに面白い。アニメ漫画みたいだけれど、目の前に生きてる小林賢太郎がいる。シュタッ、ザーン。字が読めなくたって、ちゃんと分かる。演劇もあれば、パントマイム、手品まである。なんともユニバーサルでグローバルな作品。ヨーロッパの物語のようで、どこか日本的。しかもポエティック。この無国籍・ほのぼの感覚が、国境を越えて受ける理由なのだろう。捕まえた小さな虫との共同生活がなんとも愛らしい。小さな虫も成長して、脱皮して成虫になったら?!
おとぎ話を見ているような微笑ましさと、映像などを使った的確な状況描写、ちょっととろいポツネン氏のキャラクターに、あちこちから笑い声が聞こえる。小林賢太郎も良いが、黒子の南大介も負けてはいない。絶妙のコンビだ。このふたりの世界にパリジャンは完全にはまったようで、客の視線がドーッと舞台に集中しているのがビシバシ感じられる。 ただ、時々「どこかで見たような…」と感じてしまったのが、今までに見たこともないほど面白い、という印象にはつながらなかった。まだまだいけるはず。それだけのキャパはあると確信している。(6月29日パリ日本文化会館)

     

トップページへ


リンクアドレスは http://www.office-ai.co.jp/ をご使用ください
Copyright (C) A.I Co.,Ltd. 2003-2017 All Rights Reserved.