ユーロ・ダンス・インプレッション

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昨年秋に体調を崩し、お休みをいただいているうちに気がつけば新しいシーズンが始まっている。しまったとばかりに慌てて昨シーズンを振り返りながら、新シーズンにも触れてみよう。

2022/23のシーズンは、コンテンポラリー好きにはワクワクの演目だった。

バレエ演目のシーズンの幕開けは、アラン・ルシアン・オイエンの新作でシーズンを開け、続くはマクラミンの「マイヤリング−うたかたの恋」、レパートリーに入ったピナ・バウシュの「コンタクト・ホーフ」、そしてヌレエフ版「白鳥の湖」。ヌレエフは1964年に改訂版を発表しているが、これをパリ・オペラ座のために再構築し、今年で40年目に当たるという。2023年はバランシンで幕を開け、この時にオニール・八菜とマルク・モローがエトワールに任命されたことは記憶に新しい。パトリック・デュポンへのオマージュ、そして新人ボビー・ジェーン・スミスの新作があり、バットシェバ舞踊団で活躍した若きアメリカ人の新作は興味深い。新人を発掘する一方で、90才になったクロード・ベッシーを讃えるソワレが1日だけ催され、ベジャールのソワレ、ウエイン・マクレガーの「ダンテ・プロジェクト」と続いた。招待カンパニーは意表のピーピング・トム。辛辣な社会批判がオペラ座ファンをどこまで惹きつけるのか。そして再びマクラミンの「マノン」があり、締めはカロリン・カールソンの「シーニュ」だった。

バリバリの古典作品は「白鳥の湖」だけという、コンテンポラリー重視のプログラミング。これを最後にオーレリー・デュポンはバレエ監督の座を離れ、置き土産の23/24年のシーズンは新人振付家の作品はなく、無難に古典作品とネオクラシック、そしてレパートリーに入ったコンテンポラリー作品という、前シーズンに比べれば、オーソドックスな演目という印象だ。しかし、新たに就任したジョセ・マルティネズ舞踊監督のもと、ありきたりに終わらない演出が話題になるだろうというのが大方の予想だ。

では、昨シーズンを振り返ってみよう。

全く驚きだった。心理カウンセリングを受けているような感じの上、1幕と2幕だけですでに1時間15分、20分の休憩を挟んだ第3幕が1時間10分という長さ。哲学か精神異常かを問われているみたいな作品で、ずっしりくる。トウシューズを履いたダンサーが舞い踊る作品を期待した人には残念だが、ダンサーにとっては全く新たな挑戦となったはずだ。コンテンポラリーダンスの身体を駆使した振り付けを踊るだけでなく、演じ、喋って、叫んで、歌ってのダンステアトル。それを演じきった若手のダンサーたちに拍手を送りたい。今後のオペラ座は大きく変わっていくはずだ。
緞帳の隙間から出てきた女が突然大声を出しながら踊り始めた。見えないものに怯えている。いや、彼女は感じている、そこに何かがいるのを。幽霊なのか、それとも彼女が精神異常なのか。「そこにいるのは誰?」「出ていって!」「あ、その階段のところにも誰かがいる」
そして幕が開けば、マリオン・バルボーが中央に立ち、その顔がホリゾントに大きく映し出された。

「ごめんね、ママ。そこにいるのは誰?」
「あなたのお兄さんよ」
「兄は死んだ、癌だった」

以前に小島昭二に振り付けた作品「Simulacrum」を見た時にも感じたことだが、オイエンの演出には隙がない。場面がガラリと変わるのに、それが全くスムーズだし、装置の使い方がうまく、ひとつの装置があらゆるものに変化する。手品のようでもあったことを思い出した。
この作品も3D感覚で、ひとりの女性の現在と過去が交差し、場面が脈略もなさそうにコロコロと変わり、裏方が何人も出てきて大きな装置を移動し、小道具を設定する。そしてホリゾントに映し出されるモノクロの映像。時系列が掴めない。冒頭から頭が混乱したのだが、しばらくして映像は実写で、舞台裏を歩くひとりの女を映しているのがわかり、それがマリオンの母だということが理解できると、かえってそこに時間の経過を感じて、母と娘の心理状態が浮き出てくる。装置の移動も場面の展開も、全てが計算し尽くされているのだ。
映像とマイクを使い、実際に見えている舞台の他に、ホリゾントに映し出される別の場所。そう、世の中はたくさんのことが同時に起きている。こうして舞台を見ている間にも、舞台裏ではたくさんのことが起こっているし、劇場の外、さらには世界でも様々なことが同時に起こっているのだと実感させる。なんという世界観。すると今度は、登場人物の間で交わされる会話が自分にも跳ね返ってきた。自分が見て感じているものは本当だろうか? それは想像の中のもの? 何が本当で何が錯覚? 自分は良いと思っているのに相手は同じようには思っていない。なぜ? 幸せって何? 心って何?

「少しの食べ物があって、それなりに暖かく、私には十分。これ以上何を望もうか」と満足する母親に食いかかる息子。人の感覚は違う、親子であっても、いや、親子だからこそ、かもしれない。満足な人生だと語る母は、「誰も私に何をしたいかを聞かなかった」という。

飼育しているカメレオンが話す。「虫は美味しいのよ」

自分の部屋、病院のベッド、子供の頃に住んだ家、美術館、砂漠。

「私、突然森の中にいるの」
「何を探している?」
「わからない、あなたは?お金?」
「森にいればお金なんか必要ないよ」
「森を出たら必要になるのよ」

孤独に悩まされるマリオン。それは思い込みか。

「私のことなど誰も気にしていない。」

ブツ切れるように変わる場面の合間に誰かが踊っている。
この舞台に隙はない。あちこちでたくさんのことが起こっている。
人間の心理を突き詰め、現実と架空を交差させるオイエンの狙いがあちこちに見られる。

病院の待合室。医者に名前を呼ばれた途端に女は狂ったように叫び出した。病名を知ることへの恐怖の現れだろうか。人は平静を装って診察室に入るけれど、本当のところは怖いのだ。そしてこの女は叫びまくって取り乱した後、何事もなかったかのように従順に診察室に入っていく。

ゲーム感覚で公演中に殺されていくダンサー。人の命の軽さへの皮肉だ。

ダンサーが本名で呼ばれることも、現実と虚構を交差させる。
円になってグループでの精神分析。ひとりずつ自分のことを語る。自分は誰?
見ながらこちらが精神分析を受けているような感覚に襲われるが、笑いもある。それは舞台のあちこちに隠されている。それに気がつくかつかないか、それは見ている方の問題。
観客がたくさんのことを試されているような舞台だった。

エトワールが出演しない演目をオープニングに選んだオペラ座の度胸に拍手したい。プルミエールのマリオン・バルボー以外はスジェ、コリフェとカドリーユの若手ばかりだ。しかも2幕仕立てで休憩を入れて3時間弱。2020年に上演されるはずだった作品が、コロナ禍により延期されたことも、それぞれが作品への熟考を深めたのかもしれない。長すぎるという批評もあったが、私にはあっという間の3時間だった。

マリオン・バルボーの解放された自由な身体に見惚れた。彼女は無限大にその可能性を広げているように思う。また、タケル・コストも素晴らしく、個性が見事に引き出されていた。特に、これまでに多くの招待振付家の作品を踊ってきたダンサーたちの活躍が目立ったように思う。デュポン舞踊監督の下で、多くのコンテンポラリーダンスの振付家と仕事をした成果が集結していたのだろう。身体をくまなく自由に使って踊り、演技し、これまでのオペラ座のイメージとは全く違う面を見せてくれた。
また、ピナ・バウシュのヴッパタール舞踊団で活躍していたエレーヌ・ピコンが母親役で出演し、彼女も適役だった。
毎日、世界のどこかで日常的に起こる出来事や社会現象を巧みに捉え、分析し、風刺を交えながらさらりとやり過ごす。しかしその一つ一つが針のように心に刺さってくる。オイエンの狙いは達成されたと思う。また、ダンサーの身体能力を限りなく引き出した振り付けと演出も見事だった。
この作品は賛否両論になるだろうが、オペラ座バレエ団の無限大の可能性を実感した一夜であり、私には衝撃的でいつまでも心に残るだろうと思った。
(2022年9月22日オペラ座ガルニエ宮)


Axel Ibot
©Agathe Poupeney / Opera national de Paris


Alexandre Boccara、Marion Barbeau
©Agathe Poupeney / Opera national de Paris


Takeru Coste、Marion Barbeau
©Agathe Poupeney / Opera national de Paris


Marion Barbeau
©Agathe Poupeney / Opera national de Paris


Helena Pikon
©Agathe Poupeney / Opera national de Paris

一般的な劇場は、数年おきにディレクターとの契約を更新する。それによって続投することも、交代することもあり、ディレクターが代われば上演演目の方向性も当然変わっていく。
クレルモン=フェラン市のコメディ劇場では、アヴィニヨンからリールへ移って活躍したディレクターが就任して、新ディレクターによる演目が2年目となった。今年度のプログラムも、身体表現の多い作品が多く、ダンス作品、あるいは演劇でも身体表現の多い作品が選ばれていて、言葉のあやを楽しみたい演劇ファンは少しがっかりしたかもしれないが、ダンスファンとしてはワクワクの演目。
昨年アヴィニヨンで見たヴィア・カトルホンの「ヴィア・インジャブロ」(マルコ・ダ・シルヴァ・フェレイアとアマラ・ディアノールによるダブルビル)、ニューヨーカーのトラジャル・ハレル、ヌーボーシルクのアコレアクロ、マチルド・モニエ、フローラ・デラズ(Flara Détraz)、ヤン・マルテンス、そしてアヴィニヨン・フェスティバルの新ディレクターのティアゴ・ロドリゲスなどの話題作が並んでいる。
と、その前に昨シーズンの感想を。

エマニュエル・エゲルモンは、ライムント・ホーゲの多くの作品に出演していたダンサーで、2010年からはダンサーとしてだけでなく、振り付けも手がけている。彼が創作した「All Over Nymphéas」(2021年)と、ソロ「Aberration」(2020年)を立て続けに見たのは、エゲルモンの創作意識を知る上で貴重な経験だった。

「All Over Nymphéas」は、モネの「睡蓮」にインスピレーションを得て、5人の出演者(エゲルモンを含む)による作品だ。「モネは睡蓮の絵を250枚以上描いています。そして初期の頃と後期では同じ睡蓮でも異なり、睡蓮そのものというより、水面に映る睡蓮を描き、ブルーと紫色の中にアクセントとして黄色やオレンジの色を加えています。」美術館とジベルニーに何度も足を運び、モネの思いに寄り添ったというエゲルモン。
白いリノリウムがブルーのライトの中に浮き上がる。無機質に出てきた人たちは、ロボットのようにぎこちなく動いたり、素早く手を動かし方向を変えたりしている。モネの絵から連想するようなほんわりとしたイメージはない。男がスカートを履いていたり、ハイヒールを履いていたり、真っ黒いサングラスをつけて歩いていたり。モネというより、ホーゲを連想させることの方が多かった。ところが、それが後半に入ると舞台が睡蓮の池そのものに見えてきた。白いリノは少しずつ取り払われて青い色が見え、ビニールをかけられた女は、ミレーの「オフィーリア」を連想させ、水面に咲く睡蓮の花に囲まれたようでもあった。
この創作中に恩師ライムント・ホーゲが亡くなった。エゲルモンはホーゲと15年の付き合いがある。ホーゲの多くの作品に出演し、ホーゲからものすごくたくさんのことを学んだと言っている。
「ライムント・ホーゲに捧げる」と付記されているように、「オール・オーヴァー・ナンフェア/一面の睡蓮」は、至る所にホーゲを思い起こす場面があった。しかし、それはホーゲの模倣ではない。それがホーゲがよく使っていたサングラスをかけるという行為であっても、そこにはエゲルモン自身の感性がある。この後に所見したエゲルモンのソロ「アベラシオン/錯乱」は、ホーゲを意識して作った作品ではないけれど、至る所にホーゲに通じるものを感じた。つまり、ホーゲの作品に触発されながら、自身の方向性を模索し、その感性がホーゲにも影響を与えたのではないかと思う。ふたりはお互いにインスピレーションを与え合うアーティスト同志だったのではないだろうか。


©Jihye Jung

「Aberration」
白いリノに白い大きな縦型のブラインド。白い世界にシンプルな光が差し込む空間。ゆったりと日が昇るように、その空間に明かりが広がっていく。ブラインドの隙間に見える白い体は中に浮いている。
訳せば「錯乱」というこの作品。頭の中に浮かんでは消えるイメージのように、取り止めもなくシーンが移り変わる。白い服に白い半ズボン、白いソックスに白いバスケットシューズ。床から取り出した一本の白いラインは、頭の上で山を描いている。白いリュックから取り出した粉を頭から被り、頭を振れば宙を漂う白い粉が黒幕にくっきりと浮かび上がる。オブジェにもなる風変わりな大きな帽子を被り、白い面をつけ、しかしそれらのオブジェが何かを語ることもなく、一つの出来事として葬られていく。
淡々と連なる出来事に深い意味はなくても、一つ一つが心に刻まれる。今の出来事が過去になり、新たな出来事がまた過ぎ去りながら、余韻を残していく。その余韻は移りゆく不安定な心象風景。空気にただよる白い煙のように、エゲルモンの思いは浮かんでは消えていく。
これまでの印象は独特な手の使い方だったが、この作品ではさらに動きのボキャブラリーが多彩で、その存在感と美しさに見惚れた。また、彼の美的感覚にも感心した。主な装置は縦型のブラインドだけで、これがゆっくりと開いたり閉じたりする度に、場面が大きく変わるように感じたのは、微妙に移り変わる光と影が奥行きを出していたからだろう。
エルゲモンのアベラシオンのビデオはこちらでご覧いただけます。

ホーゲはエマニュエルの中で生きている。(2022年11月26日18時La Cour des Trois Coquins à Clermont-Ferrand)


©Christophe Raynaud de Lage

ここには全てがある、空中アクロバット、ジャグリング、綱渡り、自転車アクロバットにダンスと演劇。そしてスポットライトを使った幻想的な照明に浮かび上がるこれぞれの個性が3次元の世界に浮かび上がる。兄のカミーユにも劣らないユーモアがあり、ポエムがある。
ひとつの明かりの周りに集まった若者たち。彼らはCNAC国立アートサーカスセンターのの32期生。彼らが捌けると、ラートがゆっくりと転がってきた。そして寄り添うかのように床に伏せた白いワンピースの女の横で止まった。女がそれに手をかけると、彼女を乗せて回り出す。水を得た魚のように、それまでの悲しみが吹っ切れたかのように、ラートの間を風が吹き抜ける。白いスカートの裾が風になびき、軽やかに回転する姿が爽やかだ。そこに現れた自転車アクロバットの女性。彼女を見つめる男との駆け引きが始まった。男を喜ばすかのようにアクロバットを披露し、男は大きな微笑みを持って彼女を見つめる。女が自転車から降りて男に近寄ると、なんと男は女ではなく自転車に飛びつき、抱き締めて持ち去ってしまった。男に抱き止めてもらおうと飛び込んだのに、受け止めてもらえずに落ちた女。ああ勘違いの世界が展開する。背の高い男の視界に入らない小柄な女の求愛、出会った途端にパンチを喰らう男など、スピーディーに展開する短いシーンに呆気に取られるやら、吹き出すやら。スポットライトを動かして明暗をつくり、あっという間に場面転換する演出がいい。小道具や机などの装置を動かすのも出演者たちで、流れに沿った動きの一環となっているので違和感なく場面が変わる。綱渡りもただ渡るだけでなく、膝を絡めて鉄棒をするかのように回りながら移動したり、アクロバットの中にダンス的な要素が組み込まれている。それとは対照的な叫びながらのアクロバットの連続など、舞台の温度差もコロコロ変わる。圧巻だったのは3個所で行われた綱登り。高、中、低と3次元の空中芸がスポットに照らし出されて浮かび上がる。舞台空間をくまなく利用した演出が見事だった。
また、これまで見た多くのサーカスが無言劇だったのに対して、ここにはセリフがある。ジャグラーがボールに向かって真面目に話し、ボールもきちんと対応している。ここでは道具も生きているのだ。また、どうやっても死にきれない男の姿は哀れでもありおかしくもあった。以前にラファエル・ボワテルの兄のカミーユ・ボワテルの作品に爆笑したが、妹のラファエルも負けていない。笑いとポエムを混ざりあわせて見事な仕上がりになっていた。
日本公演もしているので、見ていない方はぜひ!(2022年12月12日)


©Christophe Raynaud de Lage

2017年に初演され、その後世界を回った「バッコスの信女−浄化へのプレリュード」が再構築されて2022年から再びツアーに出ている。5年ぶりの所見は、多少再構築されていたものの、基本的には初演と変わらず、とにかくカオティック。開場と開演が同時のこの作品、席を求めて移動する観客の間を5人のトランペット奏者が演奏とは程遠い音を鳴らし、舞台では無秩序に人が動き回り誰かががなりたてている。突然鳴り響いたトランペットの揃いの音色にぐちゃぐちゃ混乱の会場が静まり返った。どうやら始まるらしい。
2度目となると初回ほどの驚きはない分(最初に見た時はぶったまげた!)、冷静に見れた。はちゃめちゃに見える動きがある時にピシッと全員が揃う瞬間はさすがだし、ミュージシャンの演技もさらに手が混んでいて、あっちやこっちで起こることに、こっちの目もあっちこっちを向いて忙しい。でもブラックユーモアに笑い、時に背筋が寒くなり、突拍子もない動きに驚く楽しい1時間だった。
私には、前回同様出産シーンがきつかったので、フレイタスに質問したら、「これは原一男の『極私的エロス恋歌1974』で、誰も手伝わずにひとりで出産するようにと監督からの指示に応えた女の出産シーンです」とのこと。これが作品とどう結びつくのかについては、この作品が生まれた背景を知る必要がある。
「ポルトガルの劇場から『悲劇』に関する作品を作ってくれと言われた時、ピンとくるものはなかったけれど、『バッコスの信女』に決めました。リハーサルの前に自分で動いて大体のことを決めて、それから出演者と創作を始めました。演奏家たちが合流した時は、全くどうして良いのかわからなかったけれど、それぞれが個性を持っていたし、少し動いてもらったら勝手にいろいろやってくれたので、そこから膨らみました。
ギリシャ悲劇の物語の中で、股の間から出てきた赤ん坊の頭を触って、獣を産んだと思い込んだ女が赤ん坊を見ずして殺してしまうという悲劇を描くにあたり、創作の2年前に見た原一男の映画を思い出して使いました。でも、この母親はひとりで産んだのちに子供を抱きしめていますよね。」
つまり、ここでは悲劇は生まれず、愛情が生まれたことを示唆していたのだ。この背景を知らなければ、ただのはちゃめちゃ劇で終わってしまう。入場時にもらうプログラムの解説を読んで、その先入観で見てしまうのも良くないが、背景がわからずして理解不能になるのもまずい。事前情報のゲットは良くもあり、悪くもあり、微妙だ。こうして背景をした今、次に見る時には何を感じるのか、ちょっと楽しみかも。(2022年10月26日)


©Laurent Philippe


©Sammi Landweer

リア・ロドリゲスの面白いところは、ぐちゃぐちゃに見えるのに、その奥には秩序があり、最後にメッセージがパシッと見えてくるところだ。この作品もしかり。
薄明かりの中、カラフルな布を舞台一面に広げて袖に入ったダンサーたちは、ひとりずつ裸で出てきて、ゆっくりと布の中に滑り込んだ。まるで海に潜るかのように。そして泳ぎ始めた。布が形を変え、人魚のようにポーズを撮る人もあれば、背の高い木を形作る人もいる。布が重なって十二単のように色も重なり、やがて全ての布が持ち去られ、黒いリノリウムの舞台になると、遠くからリズミカルな音楽が聞こえてきて、そのリズムに合わせて彼らは踊り始めた。もうここからは、踊る集団、村祭りだ。布を放り投げ、振り回し、陽気に踊っている。いつの間にか布を体に巻きつけ、布を絡めて帽子にしたり、ドレスにしたりと、ファッションショーが始まった。集団になって布を放り投げていたはずなのに、いつの間にか器用にそれをまとめて帽子や服にしている。平坦な布があっという間に素敵なドレスになっていて、しかもそれで激しく踊っても形が崩れない。次はどんな服が出てくるのか楽しみになる。リズムに合わせてこちらまで体がウキウキしてきた。
ダンサーのつま先は伸びず、膝は曲がっているのに、それがなんとも美しく見える。あら、パッセが高い! 適当に踊っているように見えて、実は著名バレエ団で踊れるだけの実力を持っているダンサーばかりなのだ。基礎ができているから崩しても美しいのだと思う。こうして陽気な村祭りが延々と続いて、でも時折そこに社会風刺が描かれて、でもそれはあっという間に人混みにかき消されて、何事もなかったように人々は踊り狂っている。そして次第にひとりずつ去っていくと、後には散らかった布が舞台一面に広がっているだけだ。戦い済んで…というところだろうけれど、ここには人間の姿がある。楽しさも悲しみも、苦痛も喜びもある。それらを明るくやり過ごす、その向こうには希望の道が開けるんじゃないかな。人が去って祭りの後の寂しさがありけれど、そこに確かに人はいた。これが「人の営み」なのだ。
戦争だの犯罪などのニュースが毎日流れる中、こうして単純なリズムに合わせて自由に踊り、後先考えずに今を楽しむ。こんな生活を人は欲していたのではなかろうか。人のあるべき姿を見たような気がした。(2023年3月3日クレルモン=フェラン・コメディ劇場)


©Sammi Landweer

コロナ禍で延期されていた公演がやっと実現。待ちに待った公演だった。
のっけから人が飛ぶ飛ぶ。そして波が押し寄せるように人が流れ、木の葉が風に舞うようになびき、倒れる。まるで空気と戯れているかのよう。
アクロバット集団のカンパニーXYが、振付家のラシド・ウラムダンとコラボしただけのことはある。ただのアクロバットに終わっていない。美しいアクロバットなのだ。人の上に人が立ち、その上にまた人が飛び乗り、さらに人がよじ登って頂点に立つ。人の4階建てだ。それがフワーッと靡いて崩れる。高いところから、あるいは遠くに人が飛んでも、ぴたりと受け止め、着地する。なんというテクニック! ほんの少しのタイミングのズレは事故につながるのだが、そんなハラハラドキドキの観客の心をよそに、スルスルと人が舞い、流れる。テクニック見せのアクロバットがこんなに美しいとは! 劇場という密閉した空間に爽やかな風が舞っているかのようだった。アクロバットは今や芸術作品なのだ。


©Christophe Raynaud De Lage

所見した日は年金改革反対の6回目のストライキ日だったけれど、公演は遂行された。そこには舞台関係者からの強いメッセージがあったからだ。ストで公演を中止することはできる。しかしそれが本当に効果的なことなのだろうか。それよりも公演をして、観客に劇場に足を運んで作品を見ることが、日常生活の中でどれだけ大切なことかを意識させるという目的があったからだ。現在多くの舞台関係者は固定給ではなく、リハーサル代も払われることなく、35時間労働もそっちのけで働いている。なぜそれができるかというと、そこにはパッション、舞台を作ることへの情熱があるからだ。怪我をすれば芸能活動ができなくなる危険性、不安定な職探しという現状は、年金を満額で受け取る可能性が低い。それでも続けるのは「好きだから」。そんな状況を少しでもわかってほしいという強い希望のもとに、公演は行われたのだ。そして最後には出演者とスタッフ総出で、年金改革反対、そして文化を救うための呼びかけと募金があった。
日本ではかなり前に年金受給は65歳になっていて、62歳から2年間伸びて64歳になることに反発するフランス人が理解できないという人がいたけれど、これだけ激しい肉体労働を64歳まで続けることは不可能だ。これは私たちに対してだけでなく、次の世代のために、今のうちに64歳年金改革を食い止めておかないと、なし崩しになってしまう。今は64歳と言っているけれど、すでにその後ろには67という数字が見え隠れしている。人は働くために生まれてきたのではない。人生を楽しむために生まれてきた。働かなくては生活できないけれど、41年間働いてきたご褒美が年金なのだ。だから退役したら思う存分人生を楽しんで、それまでにできなかったことをして、一生を終わりたい。私はこのフランス人の考え方に賛同している、(2023年3月7日)


©Christophe Raynaud De Lage

子供向けというより子供から大人まで楽しめるコンテンポラリーダンスに興味があって見続けている。3才から対象という作品はあったが、今回はなんと1歳から楽しめる作品で、親子連れで賑わっていた。
「ル・プチB」。おっぱいの形をしたクッションをオブジェに、男女ふたりが踊る。子供ショーのように「良い子の皆さんこんにちは! お元気でしゅかぁ」などというのではなく、大人が普通に見るのと同じ構成だ。フランスに来て思うのは、なぜ日本では幼児に赤ちゃん言葉で話しかけるのかという疑問。こちらでは語彙と経験の少ない子供にわかりやすく説明するのは当たり前だが、大人に話しかけるように普通の語り口で説明する。「ご機嫌いかかでしゅかあ、ベロベロバー」ではないのだ。だからこの1歳から対象作品も、通常大人が見るのと同じ形態で始まる。公演前の説明だって大人に話すのと同じ口調で説明している。子供扱いされるのが嫌いだった私には、大人と同じように対応してくれるフランス式が気に入っている。
さて、作品はもちろんコンテンポラリーダンス。劇場内のスタジオで、床に置かれたクッションに座って、ダンサーと同じレベルの高さで見学する。観客のすぐ脇をするりと踊り抜けた男性が、中央のオブジェに寝転がると、その間からニョッキリと手が出て足が出た。オブジェをひっくり返せばそれはおっぱいの形をしたクッションで、それを移動したり重ねたり。スルスルと踊ったあと、ダンサーがクッションを子供の間に起き始めた。踊りながら一人一人の子どもの特性を見極めていて、体を前に乗り出して見ていた子供の背中にクッションを置いて上を向いて寝かせ、奇声を上げ続けていた子供をクッションの上に座らせ、ダンサーと一緒に踊っていた子供達の間にはポンとおいて自由に遊ばせる。踊りながらダンサーはちゃんと子供達を見ていたことに感心した。
公演後には子供たちを自由にさせて、クッションに触らせ、スタジオを駆け回らせる。親子連れで楽しめる作品って素敵だな。(2023年3月4日クレルモン=フェラン・コメディ劇場)


©Frédéric Iovino

毎年9月に行われるフェスティバル・トン・デメ(Le Temps d'Aimer)。CCN国立振り付けセンターのマランダン・バレエ・ビアリッツがあるビアリッツで行われる。バスク地方の特色を生かしたプログラミングが人気で、パリやリヨンなどから見に行く人は、ダンスと海水浴が楽しめるとウキウキしている人が多い。まあ、私もそのひとりだけれど。

アンジュラン・プレルジョカージュがボルドー国立オペラ座バレエ団に振り付けた話題の新作「ミトロジー」で幕を開け、マリー=クロード・ピエトラガラ、マルタン・アリアグ、ディフェ・カコ、CCNロレーヌ・バレエ団など、多彩な顔ぶれが並んでいる。そして締めはマランダン・ビアリッツバレエ団。夜の公演以外にも公開リハーサルや映画上映などのイベント盛りだくさんで、特に海岸でのバレエクラス「ジガバー/Gigabarre」は看板イベント。海が見えるところにバーを何台も設置して、海の風を受けながらバレエレッスンが無料で受けられるとあって、ちょっと出遅れようものならバーを掴む場所もないくらいの超人気イベントだ。
今回は1日しか滞在しなかったのだが、手応え十分。

気になる振付家のひとりピエール・ポンヴィアンヌ。新作かと期待していたら、2014年の作品の再演なのでちょっとがっかりしていたが、見ているうちに「2014年にすでにこんな作品を作っていたの?」という驚きに変わっていった。
男女がいるだけの空間。物語も感情もなく、少し動いてポーズをしたら暗転になり、ライトがつけばふたりは別の場所に移動していて、そこでまた少し動いたら暗転。ぶつ切れのシーンがノイズ音と共に流れていく。淡々と踊るふたりをもう少し見たいと思う頃に暗転となって続きが見られないストレスを和めてくれるのが、ピアノのシンプルな音。
この作品が作られた頃は、アクロバット系のフィジカルなムーブメントが流行っていた頃で、その流れに影響されずに構成された作品は、当時は話題にならなかったように思う。そして今になってようやく彼の作品が脚光を浴び始めている。衝撃的なシーンも感動を呼び起こすこともなく、サラリと動くだけなのに、見ていて飽きないし、もっと見たいと思ってしまう。不思議な魅力を持った人だ。流行りに流されず、自己の追求を深める振付家を応援したい。(2022年9月15日Théâtre du Colisée)

「motif」のビデオはこちらで見られます。2014年の初演時に撮影されたものなので、ポンヴィアンヌ自身が踊っている貴重な動画です。彼はローザンヌ国際バレエコンクールの受賞者でもあります。


「ゲルニカ」と言えばピカソの絵を連想する人は多いだろう。スペインの市民戦争に介入したドイツとイタリア軍がスペインのバスク地方にあるゲルニカ村を爆撃したことをテーマにして描かれた絵だ。
そして今回、マルタン・アリアグはそれをバスク地方を拠点とし、バスク地方の音楽とコンテンポラリーダンスをベースとした集団ビラカとともにダンス作品に仕上げた。この村の日常が突然に崩れ、そして復活する歴史的物語として甦らせたのだ。
生演奏をするミュージシャンの前で、エネルギッシュに踊るダンサー。アコーディオン、鍵盤楽器、バイオリン、ギター、パーカッションなど多様な楽器によるバスク地方の伝統音楽をアレンジした曲に合わせて、ダンサーもバスク地方のダンスをベースとしたコンテンポラリーダンスでコラボする。そのステップの速さと正確さに目は釘付け。日差しが強く明るい村に訪れた突然の惨事。ダイナミックな動きの合間に浮かび上がるシルエットが、悲惨な戦争に巻き込まれた人々の悲しみを浮き上がらせる。音楽とダンス、暗と明、そう大きくはない劇場はさまざまな感情で爆発しそうな熱気に満たされていた。

シンプルな太鼓の音は軍隊の行進を即座にイメージさせる。その音に合わせて、司令官と兵士が銃を構え、体勢を変え、整え、少しずつ前進していく動きが鋭いテンポで進んでいく。兵士と言っても一般市民だろう、訓練を受けたら即戦場の構図が安易に連想できる。キビキビとした素早い動きが緊張感をもたらす。しかしそんな中にも日常の、慎ましやかな生活は存在していた。それが一瞬で覆された日。数え切れないほどの爆弾が投下され、逃げ惑う人々。しかし、瓦礫の中から出てきた女は、力強く前に進む。どんなことがあっても生きる。生き延びて、以前のように踊って歌う日常を取り戻す。そんなメッセージに観客は熱い拍手を持って応える。
ダンサーとミュージシャンのレベルも高く、アリアグの構成振り付けも素晴らしく、知っているようで知らなかったゲルニカ村の惨事が深く心に焼きついた。(2022年9月15日Théâtre du Casino municipal)


©Olivier Houeix

     

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