ユーロ・ダンス・インプレッション

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今年のランコントルは5月7日から30日までの約3週間にわたって開催された。プログラムごとに会場が変わるのでややこしく感じるかもしれないが、パリ郊外の劇場へは無料送迎バスがあるので(要予約)、それを大いに利用しよう。それに、見知らぬ郊外の劇場に行くのはちょっとした小旅行気分で、これも悪くない。全体的な感想としては、振り付けという観念に対する疑問が残った。つまり、ランコントル=出会い、コレグラフック=振り付け、というタイトルを掲げる以上、どうしてもダンスの振り付けを期待してしまうのだが、ここはもっと広く構えて、時間や空間の使い方も振付けの一部だと考えれば面白く見られるわけだし、フランスでは(特にパリ)では見られない新しい流れを感じたことはひとつの収穫だった。
では、上演された21作品のうちで見た16作品を簡単に紹介しよう。

ミリアム・グーフィンク「CHOISIR LE MOMENT DE LA MORSURE」(フランス)

グーフィンクの作品は「西洋版舞踏」と私は位置づけている。 早く動けば数分で終わる動きに長時間かけ、しかもそれが同じような動きの繰り返しだったりする 。でも、なぜか引き込まれてしまうのは、ダンサーの集中力が半端ではなく、そこから発する緊張感に刺激されるからかもしれない。今回の作品は、グーフィンク自身も踊るし、これまた特異な作風のシンディ・ヴァン・アンカーも出演するとあって、非常に期待して見た。ゴーという飛行機の爆音のような音が会場を回り、薄くついた明かりの中を3人の女性がゆったりと動いている。上手から下手へと人が流れるとともに、高さの異なるスポットの明かりも移動していく。それはまるで冬の太陽がゆったりと移動していくようだった。今までに見た作品のような張り詰めた緊張感というより、ゆったりと流れる時間を感じた作品だった。


(C)Anne-Sophie Voisin

テオドラ・カステルッチ「CINQUANTA URLANTI QUARANTA RUGGENTI SESSANTA STRIDENTI」(イタリア)

ふとももが異常に膨れた真っ黒の服に身を包み、そこから出る手と顔は白いが、顔の中央は黒く塗りつぶされている。かなりシュール。2年前に見た「A ELLE VIDE」もそうだったが、どこかバーチャルな次元にいるようだ。ケープタウンを吹き荒れる暴風、航海をするものにとっては命を失う危険にさらされる風、この様子を描いたというが、錆付いたドアが開くギーという音、男の叫び声や動物の遠吠え、舞台を横切るぼんやりとした明かりからイメージされるものは、沈没船に今でも残る浮遊霊への鎮魂歌という感じ。漫画チックな作風は彼女の特徴なのだと思うが、もう少し大人のシュールさが欲しいところ。


(C)Federica Giorgetti

ボイジー・セワナ「ON THE 12TH NIGHT OF NEVER、I WILL NOT BE HELD BLACK」(南アフリカ)

この人も変わった作品を創る。踊れる人なのに少ししか踊らず、どちらかというとたくさんのオブジェを広げて見せるパフォーマンス。踊る肉体を見たい人にはお勧めしないが、面白い観点から人生を批判している。パラダイスとは何か? 人の肌の色とか、人種とか関係なく、血も肌も体重もない状態を指すのだという。で、登場人物は、転がりまわる男性と、痩せた男性と超ふくよかな女性。この女性はソプラノ歌手で、その歌声はすばらしい。そしてさすがアフリカ人。腰を振ったらいきなりアフリカンダンス。このギャップと存在感に圧倒された。まさにこの女性の土独壇場。それはそれですばらしかったが、全体的なバランスには疑問を持ってしまった。

ガエル・ブージュ「LA BELLE INDIFFERENCE」(フランス)

ボンドガールのようにピシッと決めた服をためらいもなく脱いで、一糸まとわぬ姿になった3人は、16世紀から19世紀にヨーロッパで描かれた絵画に描かれた女性となる。大きなテーブルに白いクロスをかけ、白いクッションの上に横たわり、ポーズをとる。美術館でよく目にする絵画の構図だ。BGMは男性の声による絵画の解説。女性3人の動きは素晴らしくエレガント。机の上に上がってポーズをとるだけなのに、膝の合わせ方、つま先が描く弧の滑らかさなど動きの細部にまで神経がいきわたり、綿密に計算された動きは見事と言うほど美しかった。後半は娼婦の独白が流れる中、性とは何かを淡々と表現する。ちらりと股間から見えた白い紐はタンポン。それを抜いてランプシェードにくくりつけたり、写真なら黒く塗りつぶされる部分をきっちり見せる勇気には驚かされた。しかし、これがちっともいやらしくなく、まったく芸術の域で最後まで通したのはすばらしい手腕。日本では絶対に上演されないだろうなあと思いつつ会場を後にした。(以上4作品とも5月9日ボビニーMC93劇場)


ガエル・ブージュ「LA BELLE INDIFFERENCE
(C)Danielle Voirin / non libre presse natio

ナセラ・ベラザ「LES SENTINELLES」(アルジェリア/フランス)

この作品も踊りに関する動きはほとんどない。がっかりとして会場をあとにしたが、何日も経ってから作品の一部がフラッシュバックのように思い出された。ベラザの作品を見たあとに良く起こることなのだが、なぜだろう? それはおそらく、宇宙的な時間と空間を肌で感じたからかもしれない。これはベラザが追求している課題だ。薄くついたスポットが不安定にホリゾントを照らし、それはまるで懐かしいポップスにあわせて踊っているようでもあったが、それが消えるとフラットな白い照明の中に立つベラザ姉妹の姿が浮かび上がる。「アーユーハッピー?」と楽しげな歌とは裏腹に、全く無表情な2人は銅像のように立っている。空気も動かず、静止しているようにも見えるが、確かに彼女たちは動いている。非常にゆっくりとした速度で自転しているのだ。正面に向いてからはゆっくりと前進する。前進しながら突発的な短い動きが加わる。それは一瞬のまばたきのようで、錯覚かと思ってしまうほどの短く鋭い動きだ。そしてまた、何事もなかったかのようにゆっくりと前に進んでいく。それは、1人の人間の歴史を人類の長さから見たらほんの点の長さでしかなく、生きているうちは山あり谷ありと感じても、振り返ればそれらは平坦なものでしかないと言う事を言っているようだった。今現在自分の前に流れる時間と、過去を振り返ったときの時間の長さの違い。時間の流れを点と線で、しかもこれ以上シンプル出来ないくらいシンプルに見せたのは、彼女独特の作風。(5月11日CNDパンタン)(文中写真(C)Philippe Sébirot)

ファブリス・ランベール「SOLAIRE」(フランス)

前述のベラザとは全く異なった手法で、ランベールは空間を支配した。それは 動と静のコントラスト 。上からの素明かりが波のように舞台を照らし、ダンサーたちは袖から走り出ては静止し、激しく踊り、駆け抜けていく。時々何かを探すように身体を揺らし、1人の動きを追い、それに続く。人が人を支配するだけでなく、手が光をまわし、ダンサーの周りを光が走る。まるで光の布を持っているようで美しい。舞台というひとつの次元にさまざまな人がいて、それぞれが求めるものがあり、それを取り巻く温度も環境も変化する。ベラザが人類の時間を表現したとすれば、ランベールは今流れる時間と人々を描いたのだと思う。時間の流れに対する観念の違いを一晩に見られたのは面白かった。(5月11日ルイアラゴン劇場)


(C)Alain Julien

シャンタル・イゼルマンス「ARENA・ACT THREE」(ベルギー)

レスリングとダンスには共通点があるのだろうか? レスリングともレオタードともつかない衣装に身を包んだ男性と、頭から金粉をかぶり、金色のタイツをはいた男性。敵意はないものの、相手の身体に技をかけ、その技は美しいポーズでもあったりする。相手を意識しつつ、組み合っては離れ、終わりのない格闘技ダンスが続けられる。ゴングによって休憩に入り、再びゴングとともに戦いが始まる。しかしこの戦いは淡々としたもので、感情はない。単に人と人が関わり、戦い、いつくしみあい助け合う。そこには昔から引き継がれる儀式的な要素も含まれているのかもしれない。


(C)Ronald Stoops

ヘレン・ハーバートソン&ベン・コバム「SUNSTRUCK」(オーストラリア)

薄暗いスタジオに円形に組まれたスチール椅子の客席。囲まれた空間に男性ダンサーが入り、私たちが座る円周上の椅子の後ろを大きなスポットライトが走る。時に光を放ち、時に光を閉ざしながら。それは白夜に輝く太陽でもあり、月の光にもなりうる。やさしく包み込む光でもあれば、冷たい輝きでもあり、燃え盛る炎のようなエネルギーを発することもある。時折流れる靄が光に照らされゆっくりと消えていく様は、モノクロの映画と言うか、現実のものとは思えないような深みがある。そしてそのひとつの光の下で、2人のまったく違うタイプの男性が出会い、関わり、離れる。バイオリンとチェロの生演奏も良い。時折場所を変えながら、観客が座る椅子の一つに座り、常に対極をなして音を奏でる。音と光を浴びて踊る人。それぞれの人生。月夜に散る桜を見ているような、なんとも神秘的な作品だった。(以上2作品とも5月16日ラ・ショフリー)*ラ・ショフリーはフィリップ・ドゥクフレの本拠地


(C)Heidrun Lohr

メラニー・ドゥメール「JUNLYARD/PARADIS」(カナダ、ケベック)

ダンステアトル的な手法はありきたりになってしまったが、いかにまとめあげるかが最大の焦点となるのだと思う。たくさんのオブジェの間をさまよう人たち。自分の世界に閉じこもっているように見えても、心の奥では誰かと関わりたいのだろう。しかし、自分の意志と相方の望む事は違い、そこにはギャップが生じる。「気にしない」と言いながらも他人を気にしている人。興奮している人と、それを冷静に見つめる人。常にそこには温度差がある。誰だってパラダイスを見つけたいけど、いったいパラダイスって何だろう? 現代社会の人間関係を鋭く描写してあり、メッセージが的確に伝わってくる。ものすごく新しいものを見たと言う印象は残らなかったが、しっかりと組み立てられており、65分という長さを感じさせなかった。(エピネー・シュー・セーヌ市メゾン・ドゥ・テアトルエ・ドゥ・ラ・ダンス)


(C)Larry Dufresne

アンヌ・ジュレン&DD・ドルヴィリエ&アニー・ドルセン「PIECE SANS PAROLES」(オーストリア/アメリカ)

演劇とダンスと身体表現の違いとは何なのだろう?言葉がなければダンスであり、 身体表現なのだろうか? 振付家DD・ドルヴィエと演出家のアニー・ドルセンのコラボレーションと言うが、ダンスの要素はほとんど感じられず、古めかしい男女の愛憎劇という印象だった。テネシー・ウイリアムスの小説を台本としているそうだが、もう少し現代に適応する演出が欲しかった。作品のタイトル通り言葉は発せられないものの、口を魚のようにパクパクさせるのは何とも奇妙。感情をピアノをたたく音で表現するのはわかるが、それ以外の別の表現方法があっても良かったのではないだろうか(5月25日ル・コロンビエ)

ローラン・チェトゥアンヌ「TANZSTUCK ♯4:LEBEN WOLLEN(ZUSAMMEN)」(フランス/ドイツ)

タイトルの意味は「一緒に暮らそう」と言う事らしい。マンガチックな室内のイラストが映し出され、5人の男女が自由に動いている。でも、1人で勝手に動いているのではなくて、常に他人を意識して、つまり集団意識の中で動いている。「一緒に暮らそう」なのだから壁にペンキを塗るわけだし、食事もするわけだ。けんかをしながらもうまく関係を作っている感じは良いが、これがダンス作品となると、あまりに日常的な動きの連続で驚きがない。55分の中にもう少し変化のあるドラマがあっても良かったのではないだろうか。(5月25日L’ECHANGEUR)


(C)Oliver Fantitsch

IOANNIS MANDAFOUNIS & FABRICE MAZLIAH & MAY ZARHY「ゼロ」(ギリシャ/スイス/イスラエル/ドイツ)

いくらパフォーマンス的な作品でも、ダンサーとしての肉体的訓練をなされた人を見るとほっとする。先に見た2作品がこの点に於いて多大なる疑問を残したので、冒頭でサングラスをかけた男性がきっちりとアラセゴンでバランスをとったのに思わずほっとした。男性2人と女性1人。そしてモノトーンのスピーカーにバケツ。物と人がきっちり役目を果たして遊びともまじめともつかない流れが発展していく。 様々な日常の音が聞こえる中、同じ事が繰り返されても、時間と状況の変化で時間の経過が感じられる。 シンプルに見えるけれど、遊び心を持ってしっかりと構成されていたのが印象に残った。(5月25日L’ECHANGEUR)


(C)De Tollennere

リュドヴィグ・ダエ&デボラ・ヘイ「マーケット」(ノルウエー/アメリカ)

脈略のない夢を見ているような作品だった。ダンサーのダエは線の細いダンサーで、その彼がつま先立ちでヨロヨロと歩き、不安定に動く様子は何とも不思議。しかも独り言をつぶやいている。自分の意志で踊っていると言うより、何かに憑かれて踊らされているような、意思とは別の次元で身体が動いているようだ。この人大丈夫なのだろうかと不安な気持ちが膨らんでくるのと比例して、彼の踊りが激しくなり、高度なテクニックの連続となる。そしてなぜか駱駝の写真が投影されて消え入るように終わってしまう。脈略があるようでないようで、でもデボラ・ヘイらしい。

モード・ル・プラデ「PROFESSOR」(フランス)

黒い幕に囲まれた舞台に実にゆっくりと照明が入り、黒いスーツに身を包んだ男が手をせわしなく動かしている。聞こえてくるバイオリンの音に合わせて手が動いているようだ。これがレッスン1。エレキギターが響き、ホリゾントの後ろから強い白い明かりがサイドに漏れ、割れたホリゾントにギターをかき鳴らす男が見える。レッスン2のナレーションのあとは、ホリゾントから漏れる明かりに浮かび上がる二つの影が、サスペンス映画のように映し出される。2人いるのに影は1つ、あるいは1人しかいないのに影は2つあったり。幕の後ろでは何が起こっているのか。素早い展開にワクワク。そして今度は3人目の男。3人の無言の会話がスピードを変えて続き、けんかとも遊びともつかない取っ組み合いのダンスが展開される。この辺りから男3人の顔が歪み、目をひんむいたり、舌を出したり、大口を開けたり。惜しげもなく顔を崩し、これまでのまじめでおしゃれなイメージが崩れていくのはもったいないなどと思いながら、美男子3人が子供のように絡み、踊る様子を微笑ましく見た。レンヌ在住の若い振付家のMAUD LE PLADEC。略歴を見ればマチルド・モニエ、ボリス・シャルマッツ、エマニュエル・ボーダンなど個性豊かな振付家の作品を踊っているし、岩渕多喜子の作品にも出演している。将来が楽しみな作家だ。(以上2作品とも5月30日モントルイユ・ヌーボー・テアトル/CDN マリア・カサレ)


(C)Caroline Ablain

ヴィルジリオ・シエニ「LA NATURA DELLE COSE」

前評判通りの素晴らしい作品だった。白のイメージの第一章は、濃いスモークの中でセルロイド人形の顔の女性が空を舞う。4人の男性が女性をリフトし、彼女は決して足を床につける事はない。それはヴィーナスが靄に煙る森の中をさまよっているよう。人形振りと白い能面のような顔、そして白く細い腕が人間とはかけ離れた生物に見えた。青白い光に変わると巨大な白い手が現れる。その手は何かを求め、ゆっくりと消えていく。夢と現の間をさまようような、ゆったりとした時間の流れ。それが赤いワンピースの女性の踊りと男性の激しい踊りでメリハリをつけ、最後はまた夢の中に観客を引き込む。紀元前に生存したリュクレースの詩を題材にした作品は、夢物語として美しくはかなく、しかし生きる事の素晴らしさを物語っていた。


(C)Paolo Porto

フランチェスカ・グリーリ「MOTH」

とっても不思議なパフォーマンス。一列に規則正しく並んだ炎がその後ろに立つ女性の息に反応して炎の大きさが変わると言う作品。全ての炎が大きくなる事もあれば、一部が大きくなり炎のウエーブが出る事もある。また声のバイブレーションに合わせて炎までゆらゆらと揺れる様は、指揮者に合わせた炎の楽団と言う感じ。予想外のパフォーマンスがランコントルの最後を飾った。(以上2作品とも5月30日モントルイユ・ヌーボー・テアトル/CDN ジャン・ピエール・ヴェルナ)

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