今年のアビニヨンは、インの演劇祭が7月7日から29日まで、オフが7月10日から8月1日まで開かれた。インはダンスが少なく、メイン会場の法王庁の庭で行われるダンス公演はひとつもなかったのが残念。ダンス関係の公演では、ジャン・ローワース率いるニードカンパニーが2作品(そのうち1作品は、3作品一気上演の休憩含めた6時間半公演! 演劇では、法王庁の庭で上演されるWAJDI MOUAWADの11時間公演というのもあるので、それには負けるが)、ラシッド・ウラムダン、マギー・マラン、ヤン・ファーブル、デーヴ・サン=ピエール、ザッド・ムルタカ(ダンス作品は9分)。私の滞在期間中では、ヤン・ファーブルの「ORGIN DE LA TOLERANCE/寛容のオルギア」は既に観たし、ジャン・ロワーズも何本かは観たので、マギー・マランの新作とSUJET A VIFを見る事にして、あとはオフで何かを探そうと思っていた。そこで、アビニヨンに着くなり行ったのが、LES HIVERNALES。ダンス専門の劇場だ。そこで見つけたイヴェルナル発行のダンスプログラム。これはフェスティバル中に行われるダンス公演だけが、日にち別、時間ごとに全て記載されているのだ。ありがたや~! オフ・フェスティバルの1.5センチはあるプログラムからダンスを拾うのは大変なのだ。だからこれは本当に助かった。ボランティアでこんな事までやってくれて、感謝感激!
アビニヨン演劇祭イン

マギー・マラン「DESCRIPTION D’UN COMBAT」
マギー・マランが人の生と死を語る。そこには確かに彼女のメッセージがあるし、哲学がある。それはわかる。でも、ダンスというカテゴリーに分けられている以上、ダンサーの踊りを期待して観客は見に来るものだ。美術はすばらしい。黒く波打つ舞台。ダンサー9人がゆっくりと歩き、語り、波の中に入って行く。「男はその名に於いて戦う。」波のような布を一枚一枚、ゆっくりと取り除くと、その下から金色の布が出てくる。「早すぎた、来るのが早すぎた。無駄だった。」そして、金色の布を取り除くと、赤い布が見え、でこぼこしていた物は、鎧だとわかる。つまり、戦のあとの死体だ。「聖なる死」。槍を集め、旗を集める。赤い布をも取り除くと、砂利の上に鎧をつけた死体がたくさん転がっている。視覚的には美しいし、生と死を語るのも良い。でもダンス作品なのだ。もしこれが演劇のジャンルとして紹介され、役者が演じたら絶賛だったかもしれない。(7月11日オーバネル体育館)
スジェ・ア・ヴィフ/Sujet à Vif
ジャンルの違うアーティストの出会いを目的として始まったスジェ・ア・ヴィフ。いくつかのフェスティバルでも行われているが、著作権の問題があるためなのか、アビニヨンではスジェ・ア・ヴィフ、他ではヴィフ・ドゥ・スジェと、名称が変わることがあるが、コンセプトは同じ。選ばれたのは、ケイト・ストロング、アントニア・リヴィングストーン、ナセラ・ベラザ、ヤルダ・ユーネス、メリッサ・ヴォン・ヴェピー、リンダ・ゴドロー、ニコラ・ブショーの8人。この中から最初の4人を観た。
ケイト・ストロング+カロリーヌ・ラメゾン「ナルシス-0」
カロリーヌ・ラメゾンの台本を、ケイト・ストロングが演じる。ストロングは、10年以上ウイリアム・フォーザイス率いるバレエ・フランクフルトで活躍した人だ。現在はダンスは引退して、女優として活躍しているそうだ。とにかく彼女は舞台人。観客を惹き付ける術を知っている。台本を書いたラメゾンも、ストロングの素質を上手く引き出している。黒のワンピースにヒールを履いて、鼻歌まじりに出て来た彼女は、客に受けを狙い、外れると作り笑いでごまかし、舞台下にいる係の男の子に用事を言いつける。自分の経歴を自慢し、作品を演じてみせる。でも、どこまで本当なのか? 事実もあるだろうけど、バレる嘘で観客を笑いに誘う。しかし、踊ってみれば一流のダンサーであった事は一目瞭然。嘘と真実を巧みに台本にした、ストロングの独り舞台。彼女の舞台人としての素質にブラボー!
アントニア・リビングストーン「Culture and Administration」
舞台転換でスタッフが準備をしている間に、ふらふらと出て来たリビングストーンとジェニファ・ラセイ。黄色と緑のバンダナと、レオタードにカラータイツが森の小人を連想させる。しかも浮かれて踊っているし。蝶のようにほわほわ走り回っているのに、いきなりアルミ缶が爆発したりして、観客を驚かせる。客の様子をスケッチする3人の画家らしき若者がいるが、とうとう最後まで作品を見せてもらえなかった。それには関係なく我が道を行く二人。自分たちの目の前の事しか考えていないようなこの二人が笑える。ピクニックをしようと言って広げたナプキンで男根を作り、喘ぎ声を出したと思ったら、いつの間にかマッサージ棒に変わっていたり、民謡を歌いながら爆弾を作ったり。ちょっとおかしな二人のパフォーマンス。世の中このくらいお気楽に生きていけたら幸せかも。
ナセラ・ベラザ「Le temps scellé」
会場のサン・ジョセフ高校の中庭の舞台には、2本の木が生えている。その木に向かって黒いスーツのベラザとセルジュ・リッチが呪文のように何かを唱えている。リッチは上手の木に向かい、ベラザは下手奥の木に向かっている。ゆっくりと向きを変えた2人は、お互いの方向に進みながら、次第に口調が激しくなっていく。何をいっているのかは聞こえない。しかし、激しい口調である事は、その口元から想像できる。1つのカップルとして相手に言葉を浴びせているのだろうか。しかし2人はお互いに触れる事なくすれ違い、さらに進もうとするが、木と腹を結ぶ黒い紐によってそれ以上遠くに行くことはできず、すとんと倒れてしまう。ゆっくり起き上がり、さて、これから何かが始まるのかと期待したが、何もなく終わってしまった。集中できる劇場で、しかも照明があれば何かを感じれたのかもしれないが、照明がない自然の中と言うのは難しい。
ヤルダ・ユーネス「ANA FINTIZARAK」
ベイルート生まれのユーネスがフラメンコを踊り、やはりベイルート生まれのヤスミン・ハンダンがその横でアラブの曲を歌う。ハンダンは、大きな瞳で客席の一点を見つめ、口をほとんど動かさず、表情一つ変えずに歌う。その声には、世捨て人のような物悲しさと、強さが感じられる。その歌声の横で踊られるのはフラメンコ。とても不思議は組み合わせだったけれど、何をいいたかったのかはつかみきれなかった。(以上4作品とも7月13日サン・ジョセフ高校の聖なる中庭)
LES HIVERNLES
ダンス専門なのは、ここが振付け拡張センターだから。そして、プログラミングがしっかりしているからだと思うが、スタジオと劇場で毎日行われる10公演のほぼ全てが満席。私が観たのが開演した翌日からだから、口コミで既にこれだけ反応があるという事に驚いている。めちゃ面白い公演は、入れない人も出るほどの盛況だし(立ち見は消防法違反なので、座席数以上の観客を入場させることはできないのです)、いまいちだと、90%の入り、或は80%と、お客は正直だし、噂は早い!と感心するばかり。20年以上前にここを立ち上げ、これだけ大きくしたディレクターのアメリー・グランは今回で引退し、新しいディレクターは9月に就任する。来年はどうなります事やら。グランさん最後のプログラミングに私は超満足。ありがとうございます、そしてお疲れさまでした!
カンパニー・オンスタップ/ハッサン・ラザック「Parce qu’on va pas lâcher」
早とちりの私は、カンパニーの名前を「オン・ストップ/on stop」だと思っていた。そうしたら「オン・ス・タップ」だったんですね。「ONSTAP」と表示してあるけれど、耳から聞くと「on se tape」つまり、お互いを叩き合ういう意味にもなるんです。そしてその通りのダンスでした。演劇のワークショップで出会った二人がたどり着いた自己表現は、自身の身体を叩いて音を出すこと。叩く場所によってこんなにたくさんの音が出るものかと感心するし、自分を叩く時と相手を叩く時で音が全然違う。そこに脚で踏むリズムと口出だす音としゃべりが入り、軽快なテンポに見ている側も乗せられる。真似できそうだけど、彼らみたいに軽快なリズムを出すのは難しい。(7月14日)

(C)Saïd Zaïour
カンパニー・プロポ/ドニ・プラサール「DéBa Tailles」
このタイトルも言葉遊び。耳から入る響きは「戦い」を意味するし、目で見れば、「議論を切り捨てる」とも取れる。それが、本当に戦いづくしの65分。何と戦うかって?男同士の、見栄をかけた戦いですわ。オーディションごとく、全員が同じフレーズを踊り、こけたり間違えると退場させられ、最後に勝ち残った一人が晴れて王冠ならぬ、金髪のカツラを付けることができるのだ。その後は金髪組と黒髪組に別れての戦い。いろんな戦いがありまして、プログラムによると16シーンあります。取っ組み合いの戦いだけでなく、よくある職場での相手を蹴落として、自分がのし上がる様子、隙を見て相手の弱点をつついたり、力比べをしたり。フラフーフ競争も出て来たなあ。次から次へと展開する戦いに、会場は笑いの渦。ミュージシャンもカツラをかぶっていい味出してた。基本はヒップホップ集団だが、踊りばっちり、体力ばっちりで、歌を歌わせても、人間楽器をやらせてもさまになる。開演4日目にして入りきれない人が出る理由がよくわかった。(7月13日)

(C)Chrisitan Ganet
カンパニー・クラッシュ66/ラファエル・ヒルブランドとセバスチャン・ラミレ「SEULS ENSEMBLE」
映像を使ったヒップホップ作品。スクリーンの前と後ろを使う事で、現実ともう一つ別の世界に住む人との会話が描かれる。不思議は風に押し流され、ホリゾントに映し出された廊下を進んで行く。廊下のイラストが縦になった横になったりしながら行き着いたドアを開けたら、自分にそっくりなもう1人の自分がいた! 影も使いよく出来ていたが、ちょっとパンチに欠けると思ったのは、他にもっと面白い作品を観てしまったからかな?(7月12日)

パスカル・モンルージュ「スーパーマンと私」
舞台と言うのは何が起こるかわからない。彼らにとっては悪夢で始まったと言って良いのかもしれない。初日前夜のゲネで、ダンサーの1人が大けがをし、病院に運ばれ、踊れなくなってしまったのだ。ダンサーは7人だった。それが6人になってしまう。しかも、振付家はここにはいない。彼は2週間後にしか来れないのだ。そのために、初日公演はキャンセル、翌日から幕を開けたが、ダンサー達の動揺はかなりのものだったと思う。しかし、そんなかけらを感じさせず、元々6人のダンサーしかいなかったように構成し直されていた。よくやったと思う。それは素晴らしい。しかし、作品は私には全く受け入れられないものだった。タイトルと踊りの共通点が見当たらず、さらに、胸の悪くなるような台詞が続く。ダンスもあったが、気分を害する言葉のせいで、とても嫌な気分だった。言葉は恐ろしい。(7月14日)

(C)Pascale Beroujon
カンパニー・ラ・リジューズ/ジョージ・アペックス「Rien que cette ampoule dans l’obscurité du théâtre」
ダンスを期待すると外れるかもしれない。でも、ダンステアトルとしてみると面白い。舞台には次々と小道具が出て来て、寸劇的なシーンが流れて行く。その合間に意味もなく舞台を横切る黒いマントを羽織った人。欲しい時に欲しいものがないのに、欲しくない時にはそこにある。そんな日常ありそうな事が連なる。アカペラのように流れる言葉と動きの組み合わせが面白い。いつもと同じ作風だけれど、どたばた劇と音楽のような声と軽いダンスの組み合わせが気持ちよかった。(7月14日)(以上、HIVERNAL劇場)

(C)J. GOUSSEBAIRE
デルガド・フッシュ「Manteau long en laine marine porté sur un pull à encolure détendue avec un pantalon peau de pêche et des chaussures pointues en nubuck rouge」
「桃色のズボンと赤いバックスキンの先の尖った靴をはいて、襟ぐりが緩んだセーターの上に着た青色のウールのロングコート」と、意味がなさそうなタイトルと、イヴェルナルの今年のポスターにもなったピンクとブルーの水着を着た男女。これを見て、誰がこれがまともなダンス作品だと思うのだろうか。イヴェルナルのホームページを見れば痩せるための(?)エクササイズをする男女のプロモーションビデオ。しかも朝10時半開演。それなのにほぼ満席。客層はどう見ても踊りとは関係なさそうな年配のおじさんがぞろぞろ。しかも最前列を占めている。嫌な予感。ポスター通りの、水色のパンツ1枚で出て来た男は、軽くストレッチをしてエクササイズを始めた。あ~、プロモと同じ事が始まるのか。。。。。。しばらくして、これまたポスター通りのピンクの水着の女性が、紙袋と何やら大きな円筒形の機械を持って現れ、ストレッチを始める。観客に向かって大股開き。しかも、ビキニで横の開脚とは、なんと大胆。だから親父がたくさん見に来ているのだろうか? 完全に180度開いた脚と、見事な甲に目を見張る。しかし、これはダンス作品だぞ! しかし、全く期待しないという事が、作品を素直な目で見る事が出来るという事がある。つまり、この後の展開がよく出来ていて、はまってしまったのだ。基本的にショーダンスをおちょくったものなのだが、ダンスの基礎がしっかりできている2人なので、さまになる。水着を脱ぎ捨て、裸で踊る場面にもちゃんと意味がある。意味があるからちっともイヤラシくない。する事なす事全てに誰にでも理解できるちゃんとした意味があり、とてもポジティフ。展開のテンポも良い。何も考えていなさそうで、しっかり創られている作品。アカデミックではないかもしれないが、サンパティックでオリジナリティがある。気に入った!(7月12日)

(C)Delgado Fuchs
カンパニー・オーレリア/リタ・シオフィ「PAS DE DEUX」
シオフィは、決して女性的ではない。小柄で痩せているが、太い眉と腕に着いた筋肉から、少年のようなイメージを受ける。その相手のクロード・バードゥイユは、マチョだ。ジーンズに白いTシャツというシンプルな出で立ちで舞台中央に立ち、2人の会話が始まる。言葉はない。ジーンズのベルト通しをつかみ、それでオフバランスになる。ズボンをつかんで身体を持ち上げる。Tシャツを引っ張って相手を引き寄せる。乱暴にも見える2人の身体会話。まるで野生児だ。動物がじゃれているのか、けんかをしているのか区別がつかないけれど、結局は仲良しでいるように、この野生児2人が戯れている。時々リフトを失敗して落ちてしまっても、ニット笑って力ずくて元の位置に戻す。決して洗練されたリフトではないが、お互いに仕掛け、そのタイミングを外す事さえ楽しんでいる。デルガド・フッシュのディエットを観た直後だったので、この野生児2人に最初は戸惑ったが、慣れてくれば独特の関係が面白く、2人の間の愛情さえ暖かく感じられる。男女の関係にもいろいろあるなあと、つくづく思った。(7月12日)

(C)Michel Pieyre
カンパニー・エピデルム/ニコラ・ユベール「METAPHORMOSE(S)」
以前にパリで見て、面白いと思った作品。今度はスタジオという、小さなスペースになったが、やっぱり面白い。楽器ケースが動き出し、中から出て来たミュージシャンのカミーユ・ペランの背中には、弦楽器の空気孔が描かれている。この人は何からでも音を出してしまう。ゼットライトのバネでギョイ~ン、ギョイ~ンと音を出しながら歌い、ゼットライトの傘で、机を擦ってギーと音を出す。気がつけば誰もいなかったはずの机の下にダンサーがいて、足がにょきにょきと出てくる。人間の足とは別の生命体にも見える。芋虫のようにはって出て来るシーンは、カフカの変身を連想するし、それに合わせてベースを弾きながら気勢を上げるペラン。このおじさんは役者で、腹芸までしてくれる。ユベールの人型が描かれたボードの前で、貼付けられた人形のように踊るユベールの姿がコマ送りのように見える。照明を扇風機の羽根で遮っているのだ。舞台装置に無駄がなく、一つのものを多様に応用し、ダンスと音楽と装置が上手くまとまった作品。(7月11日)

(C)Olivier Humeau
ラ・ヴォワーヴル「OUPS+OPUS」
古びたソファーに靴。懐かしのメロディーが流れ、その中に身を浸す男女。膝をたたき、くしゃみをして、鼻を擦る。日常の仕草がダンスに上手く取り入れられている。リフトも身体を抱えるように持ち上げて、するすると流れて行く。コンビネーションもよくて、踊りも上手くて、全てが自然で、すごく良く出来ているのに、ぐっと来るものがないのは、上手くまとまりすぎているからか。どこかででもっと羽目を外しても良いのではないかしら?(7月11日)

(C)Patrick Faccioli
アンブラ・セナトール「MERCE」「MAGLIE」
紺のスーツに身を包んだOL風の彼女が掃除用具を腰を曲げて持ち出してくる。ドジなお掃除おばさんだ。コーヒーのつもりで飲んだ物がアルコールで酔っぱらってしまい、、、と言うのはよくあるストーリー。暗転になったら、衣装を替えて紙の人形を持って出て来た。マグカップを置き、クッキーを食べて、ちょっと踊ったところでアナウンス。「この作品は○○年に創られ、27分の作品、1000ユーロ」。その後は次々と作品の抜粋を見せて、作成年月日と上演時間と値段をアナウンス。このオンパレード。最後は黒のイブニングドレスに身を包んだ美人の彼女が、化粧をし身体を磨き、「私を買って!」。カタログのような作品で、どこまで本気で作品を売りたいのか、笑いを取るためにやっているのかは不明だが、アイディアは面白いし、売れなきゃどうにもならない振付家のジレンマが出ていて面白かった。2部の「MAGLIE」は、床も衣装も洋服掛けを覆う布も全てがレースで出来た舞台に目を見張った。レース編みはまだ完成していないのか、胸から編み棒を出して来て頭に刺したりする。蜂蜜を出して食べたり鼻をかんだり。そこへ天からの一喝「踊らなきゃダメよ!」。あわてて踊り始めるも、踊るより蜂蜜をなめている方が良いお年頃。マネキンの脚を持って来て、いかにも自分が踊っているかのように見せかける。「踊りたいの? それとも何をしたいの?」ママの声に仕方なしに踊る少女。子供の頃を思い出す微笑ましい作品だった。(7月12日)
(以上スタジオ・イヴェルナル)
(C)GIORGIO SOTTILE
オフ公演の数はあまりにも多すぎて、見たい公演を見つけた時にはパリに戻る直前で、時間がなくて観られないという事が過去に何度もあったが、イヴェルナル特性ダンスカレンダーのおかげで今年は素早くチェックできた。
イワン・アレクサンドル「HOMOGENE, DUO」
ダンスと演劇の垣根が低くなり、ダンサーがしゃべり、役者がしゃべらない。ダンスを見に行っても振付けはなく、言葉の嵐に頭が痛くなる事もしばしば。そんな中で、正当派、しかも質の高いダンス作品を創る振付家もいる。これから絶対に伸びると確信しているのが、イワン・アレクサンドルだ。ゴーという地響きのような音の中、暗い舞台に横たわる手と脚がぼんやりと見え始める。赤く照らされた肌色がゆっくりと動き始める。二つの影がくっついては離れ、空気を切るように立ち上がった彼らに顔はなかった。のっぺらぼうなのだ。男なのか女なのか。鏡のように向き合って動き、ふっと近寄れば融合するようにコンタクトが始まる。2人は同質の双子なのだ。肉体的にも精神的にも。離れていても、共通する何かに繋がれている2人。だから、1人が死ねばもう1人も死ぬことになる。ダンス作品を構成し、見せる事において、彼はセンスがあると思う。音、照明、衣装はもちろん、全てにおいて滞りがない。いつも不思議に思うのは、見終わったあと、身体が作品がもたらす雰囲気に包まれている事を感じるのだ。だから終演後しばらくは席を立つ気にならない。もう少しこの余韻に浸っていたいと思うのだ。これからのフランスダンス界に於いての期待の新人と私は評価したい。機会があったら是非見てほしい。(7月12日GRENIER A SEL劇場)

ソフィー・ボケット「ゴールデン・ガール」
パリで既に見ていた作品だったけれど、場所が変われば作品の印象も変わるし、時間をかける事で作品の成長が見られるのが、やっぱりいい。この作品は芝居寄りのダンステアトルなので、ダンスの場面はあまり期待できないが、1人の女性の生き様が興味をそそる。彼女はポジティブだ。自分の企画が通って、これから夢が叶うかもしれないという、希望を持った女性は美しいし、見ていて気持ちが良い。笑顔が素敵な彼女を見て、今日は1日が明るく過ごせるなと思った。(7月14日CONDITION DES SOIES劇場)
