ユーロ・ダンス・インプレッション

Recent Impression

やっぱりこれでなくちゃ、と誰もが思ったと思う。町中が賑わうアヴィニヨンのフェスティバル。少し人出が少なかったかもしれないけれど、コロナ禍前とほぼ同様に、そして無事に開催されたことを喜ぶべきだと思う。インは7月27日から26日まで行われた。39演目(ヴィヴ・ル・スジェ/Vive le sujetを除く)のうちダンスは8演目。少し少ないようにも思えるけれど、オリヴィエ・ピィ監督最後の演目は果たして?
前半にあったふたつのダンス公演が見られなかったのは残念だったが、中盤から後半にかけてを所見。では、見た順に。

今注目の若手振付家のマルコ・ダ・シルヴァ・フェレイラとアマラ・ディアノールによるダブルビル。つまり、ひとつの作品の中にふたりの振付家の作品があるのだ。
まず始めがマルコ・ダ・シルヴァ・フェレイラの「førm Inførms」。う~ん、率直に言えば予想とは大きく異なる作風で、ちょっと違和感。このカンパニーはストリート的で明るく元気に踊る印象があってそれを期待していたのだが、大きくフェイントをかけられた。ブーと唸りながら腰を揺らして踊り始めたのだが、どこかおとなしい。それに、トランペットの音色と踊りが一致しないように感じて、この違和感が最後まで付き纏った。最後に白いリノリウムを剥がして裏返し、黒い舞台に変えるのは、こんな形での舞台転換もあるのかと感心したが、それが作品の趣旨に繋がるかどうかは疑問。振り付けのマルコ・ダ・シルヴァが独特の感性を持っていることはわかっているが、カンパニーの新たな方向性を示すまでにはいかなかったように思った。
ウェブページはこちら。


ⒸChristophe Raynaud de Lage / Festival D’Avignon

第2部のアマラ・ディアノールの「Emaphakathini」は、カンパニーの特徴をうまく生かしていたように思う。観客にコカコーラを振る舞い、さんざん踊った後、「アマラがこれをやれって言ったから」などと裏話で笑いを誘い、まるで街中で彼らのストリートパフォーマンスを見ているような気分。舞台のあちこちで盛り上がっているのを見るのは楽しい。ヴィア・カトルホンらしい作品だった。(7月16日22時アヴィニヨン大学の中庭)
ウェブページはこちら。


ⒸChristophe Raynaud de Lage / Festival D’Avignon

中性的で声と動きを融合させる作風で一目を置かれているフランソワ・シェニョの新作「テュミュリュス」は、音楽家のジョフロワ・ジュルダンとのコラボレーション。今回は自身は踊らず、13人の出演者によるもので、踊りより音楽に重点が置かれていた。それもそのはず、ジョフロワ・ジュルダンは「レ・クリ・ド・パリ」という声楽と器楽のアンサンブルのディレクターで、アカペラで歌う歌手と数人のパフォーマーで構成されていたからだ。そのために、ダンス作品だと思うと期待はずれになるが、音楽パフォーマンスと見れば面白いだろう。ルネッサンス時代のミサ曲などを組み合わせていて、研ぎ澄まされた歌声に聞き惚れる。巡礼地を回る一行のように緑の丘の周りを歩き、登り、丘をくぐる。時折休んで空を見上げ、何人かは踊り出す。ただ少し突飛に見えたのが衣装。寝袋を広げたようなものを纏っていたり、首に巻いたり。鳥の巣のような帽子を被り、レオタードのような服を着ていたり。頭に色とりどりの花などを載せるのはカラフルで舞台が明るくなったが、それ以外のものは奇異に見えて、少し違和感を感じた。ただ、先にも述べたように、歌が専門の人がダンサーと見違えるほどに踊ったことは素晴らしく、2年にわたる練習の成果は出ていたと思う。(7月21日18時La Fabrica)
ウェブページはこちら。


ⒸChristophe Raynaud de Lage / Festival D’Avignon

オルレアンのCCN国立振り付けセンターのディレクターのモー・ル・プラデックは、8歳のカナダの子供がクランプを踊る映像に驚愕して、即連絡を取り、この作品が出来上がることになったのだという。そしてこの作品にはもうひとりプロのコンテンポラリーダンサーも登場する。つまり、作品は2部構成になっているということだ。
まず、8歳の女の子、モントリオール在住のアデリーヌ・ケリー・クルズのソロで始まる。確かに8歳の子供にしてはよく踊ると思う。しかし、あいにく8歳の子供の踊りにしか見えなかった。奥行きがないのだ。クランプは怒りをベースにした振り付けで、社会から阻害された人たちから自然発生したものだと思っている。だから社会などに反発する怒りや感情を肌で感じたかったのだけれど、あいにくそこまでは感じ取れなかった。ここに大男の黒人ラッパー、ジュニア・マッドリップが登場して、彼の体の半分くらいの女の子を肩に乗せ、その肩の上での踊りは大したものだったが、それでもそこからは心打つようなものは感じられなかった。確かに彼女の父親が投稿したYouTubeは迫力があるが、舞台作品は別物だ。同じ作品を何度も踊らなくてはならない。毎回新鮮な気持ちで踊ることは容易いことではない。それができるのがプロだと思っている。即興で自由に踊ることが素晴らしくても、舞台作品として人を感動させることとは違う。8歳の子供が初の大舞台で世界ツアーをした結果が彼女をどう変えるのかが気になる。これが率直な感想。ところが、後になってプログラムを読めば、成長の過程、つまり、今彼女が得て、そしてしばらくのちに失うものに興味があるという。つまり、プラデックは8歳の子供の成長にともなう変化に興味があるということだ。それなら是非とも10年後に再度彼女に振り付けをしてもらいたいと思う。
彼女たちが引っ込むと、黒人の女性が静かに現れた。短距離走者のスタート姿勢のようにリノリウムの端に位置するが、そこから爆発的に何かが始まるわけでもなく、サラサラと踊って終わってしまった。一体サイレント・レガシーとはなんだったのだろうかと、消化不良を起こした感あり。(7月22日22時Cloître des Celestins)
ウェブページはこちら。


ⒸChristophe Raynaud de Lage / Festival D’Avignon

昨年は壮大な宇宙感のある作品で多くの人を魅了したヤン・マルテンス。今年はダンス作品では唯一法王庁の中庭で演じるとあって大きく期待したのだが、残念ながら前作ほどの感動は得られなかった。
法王庁の中庭の舞台は巨大だ。袖幕がないから一層大きく感じる。そこに1列に並んだ長椅子がど真ん中に並んでいる。出演者たちがゾロゾロと出てきて思いのままに舞台に広がった。後ろの壁にもたれたり、長椅子に座って周りを眺めたり、それぞれが自分の時間を過ごしている。ハープシコード奏者が現代音楽を奏でると、ひとりずつ踊り始めた。マルテンス独特の振り付けだ。音符がそのまま動きになっている。私はこの感覚が好きなのだ。そしてひとりの動きが遠くの人に呼応し、自由に動き回っているように見えるけれど、秩序を持って移動しながら踊っていて、舞台全体に予知できない流れが渦巻いている。さすがマルテンス! しかし、これが長すぎた。流れは面白いのだが、振りが似通っているからか冗長に感じ始めた。すると今度は場面が大きく変わり、小型カメラでダンサーを後ろの壁に映し出す。ひとりがふたりになり、その後ろからまた現れ、ひとつの集団になった。そして近未来を予測する言葉が投影された。
「異常気象はさらに悪化して夏と冬が逆になる」
「葡萄は種がなくなる」
日本ではすでに種無しブドウは流通しているのだけれど、ヨーロッパにはまだないのかな。この後長く連なった長椅子を崩して舞台のあちこちに移動し、大きな桶に水を入れ、ひとりずつ水浴びをし、足音でリズムを刻んで終わる。
前半は悪くなかったが、後半特に水の入った桶にダンサーが水浴するシーンは冗長で、流れが止まってしまったように思う。また、近未来を予想するシーンが言葉でくくられてしまったことは、安易に思えた。マルテンスなら言葉に頼らずに、身体で表せたのではないかと、少し残念だった。

以上が私の率直な感想だが、マルテンスのインタビューを読むと、作品の背景がわかるのでここに紹介したい。


ⒸChristophe Raynaud de Lage / Festival D’Avignon

出演しするのは、15人のベルギー王立フランドルバレエ団のダンサーと子供ふたり、そしてポーランド人のハープシコード奏者。前作でも使ったハープシコードを再度使ってみた。
コロナ禍で二進も三進も行かなくなったけれど、おかげで突き詰める時間ができた。そしてハープシコードについて調べていくうちに、気候変動やコロナ禍の問題が近未来へとつながった。
ハープシコードの音は、1980年代のメタリックな音、あるいはビデオゲームの音に似ている、そして今回演じてくれる奏者もパーカッション的な音を出す。これがこれまでとは異なるリズムのダンスになる。現代音楽をハープシコードで弾いたらどうなるか。
バレエダンサーがアヴィニヨン・フェスティバルの法王庁の中庭で踊るのは、38年前のパリ・オペラ座以来。
今回はお金をかけないことにしたので、大掛かりな装置をやめ、リサイクルで衣装を作った。ソロもデュエットもない。荒削りだけれど問題を抱えた現代を、希望を持ってよくすること、それができる可能性が我々にはあることを、前作より強く訴えたかった。(7月21日21時半法王庁の中庭Palais des Papes)
ウェブページはこちら。

知人が「ダンスを期待して見に来たのに、今年は歌う作品ばかりを見ました」と言ってがっかりしていたが、確かに。ジャンル分けされていても、必ずしもその通りとは言えないことがある。分類できないほどの多様性を持った作品が多いからだ。特にアリ・シャルールにダンスを期待してはいけない。しかし、作品として成り立っている。つまり、趣旨が明確で、演出が見事なのだ。
ここにはふたつの話がある。まずは子供を失った叔母の話が歌で語られる。字幕を追うのが大変だったが、舞台での動きが少ないぶん、字幕を追える。27歳の時、レバノンからシリアに渡り、そこで消息を絶った息子。その死を信じないまま亡くなった母の思いがヒシヒシと伝わる。実話だから実感できるのかもしれないが、息子を思う母の愛情にぐいぐいと引き込まれた。そして次の話が戦士になりたかった息子とその母の話。このふたりが実際に舞台で演じる。ふたりともプロのダンサーではないけれど、特に母の存在感が強烈だった。戦士となればいつかは殉教する運命にあるかもしれない。それを思う母の気持ち、そして戦士ではなく平和に共に暮らす幸せ。最後のパートでは死と生と愛を語る。
これまで見た作品の多くは、彼の身近な体験に基づいている。実話だから実感が湧くこともあるが、その演出と構成の仕方がうまいのだと思う。シャルールは実力のあるダンサーだと思う。しかし多くの作品で踊らずに舞台の奥からじっと舞台の成り行きを見守り、時々中央に出てポーズを取る。今回は珍しくお腹をくねらせながら自転していた。それだけだけれど、そこに魅せられるのは、その存在感と彼の信念があるからだろう。舞踊のジャンルに分けられていても、踊りを期待してはいけない。でもそこには生を受けた者に対する深い愛を感じずにはいられない。(7月23日22時アヴィニヨン大学の中庭)
ウェブページはこちら。


ⒸChristophe Raynaud de Lage / Festival D’Avignon

ふたりのアーティストによる30分のコラボレーションシリーズ。残念ながら前半の組み(7月8日から14日まで)を逃してしまったが、後半を所見。 今年は演劇作品が面白かった。


ⒸChristophe Raynaud de Lage / Festival D’Avignon

第一次世界大戦中に徴兵され、前線で戦う未成年の息子と母が交わした手紙を元にした作品。オブジェを叩く効果音と大きな紙に書かれた言葉、淡々としたナレーション。大きな動きはないけれど、演出がよくジーンときた。
この酷暑の中、劇場にたどり着くだけでも一苦労、さらにそこでもらったプログラムの解説に目を通すだけでも大変なのに、さらにカラフルな紙にコピーされた数枚の紙を渡され、最後のページは指示があるまで読まないでねと、そのページだけ折り畳まれている。これだけ読んでも意味はさっぱりわからなかったのだが、これが面白い効果を発した。中盤にボードを出し、自分が持っている紙の色が出たらそこに書いてある文章を声を出して読んでくださいとの指示。人によって色が違うから文章も異なるわけで、3種類の異なる言葉が観客によって唱えられると、これがハーモニーとなって言葉の音楽が奏でられたのだ。色違いの紙が3枚あるから、3回異なるハーモニーで会場が満たされた。効果音を出す生演奏とは異なる効果音。しかもこれが芝居進行のカギともなっていて、声に出して読むことで物語の中にいつの間にか入っている自分がいた。なんという相乗効果!
折もおり、ウクライナでの戦争が起こっており、100年以上前の題材とは思えなかった。戦場に送られた息子と、その安否を気遣う母。
「春になったわよ。あなたのところにも春がやってくるわね。」
人間同士が殺し合う戦争がこの世からなくなることはあるのだろうか。Séries 3 (7月21日11時)
ウェブページはこちら。


ⒸChristophe Raynaud de Lage / Festival D’Avignon

美術家でもあるヴァンサン・デュポンは、ベルナルド・モンテとのデュエット。めちゃめちゃ踊りたいモンテと動く美術的なデュポンの対照的な存在が、奇妙に融合している。おじさん(失礼)ふたりの噛み合わなそうで噛み合う会話のダンスが微笑ましい。ヴァンサンの美的感覚による舞台装置を期待していたのだけれど、黒くて大きな風船が窓から飛び出しているだけで、そこから発展するものがなかったのが少し残念。期待しすぎだったかな。(7月24日18時)
ウェブページはこちら。


ⒸChristophe Raynaud de Lage / Festival D’Avignon

このシリーズの中で最も面白かった。演劇だから言葉がたくさん。しかもポーランド語がバシバシ飛び交うから、セリフを理解することを諦めていたのだが、言葉を音として捉え始めたら面白くなった。ひとりはポーランド人、もうひとりはポーランド語を知らないフランス人。なのになぜかポーランド語の歌を子供の頃に歌っていた。なぜポーランド語の歌を? 家族にはポーランド人はいない。その記憶を辿る話。それだけなのだけれど、ぐいぐいと話に引き込まれた。ルーツを探ろうとする人と、それを精神科医のように分析しながら思い出を紡いでいく人とのやりとりが面白かった。(7月24日18時)
ウェブページはこちら。


ⒸChristophe Raynaud de Lage / Festival D’Avignon

残念ながら、今年は心に残る作品に出会えなかった。これまでの作品が素晴らしかったために、期待しすぎていたからかもしれない。多くの作品は今後世界各地で上演されるだろう。場所が変わり、時間を経ることで作品は振付家とダンサーと共に成長していくものだと思っている。これから再びいくつかの作品を見る機会があると思うので、今回の印象にとらわれずに再会したいと思う。

追記
アヴィニヨン・インのフェスティバルで見逃していたエマニュエル・エジェルモンの「オール・オーヴァー・ナンフェア」を11月に見る機会に恵まれた。非常に密度の高い作品で、次回ぜひ紹介したいと思う。

トップページへ

リンクアドレスは http://www.office-ai.co.jp/ をご使用ください
© 2003 A.I Co.,Ltd.