2015年最初の月は、見ごたえのある作品に多く出会えた。初め良ければ終わり良し。しかし、青山劇場の閉鎖という悲しいニュースも。

イギリスのコンテンポラリーダンス界を代表するひとり、アクラム・カーンと、スペイン気鋭のフラメンコダンサーイスラエル・ガルヴァンのコラボレーションは、常に新たなものを求める2人の精神に満ち溢れた素晴らしいものだった。
円形に照らされた舞台にカーンとガルヴァン、その横にはそれぞれのミュージシャンが並ぶ。フラメンコもカタックダンスも足を踏む。しかしそのリズムや踏み方は全く違う。大地を踏み固めるようなカタックに対して、フラメンコは上へと伸びる。回転にしろ、腕や手の動きにしろ、全く異なる質の動きだ。それをお互いに見せ合い、挑発する。この2人をさらに盛り上げるのがミュージシャンだ。それぞれのダンサーを盛り上げるだけかと思ったら、ミュージシャン同士がコラボしてスペインの歌声にシタールがかぶさり、手拍子と太鼓がこだまする。そして、スパニッシュでカーンが踊り、カタックのミュージシャンとガルヴァンがコラボする。さっきまで2つのダンスの違いを見せていたのに、今度は見事な融合だ。ガルヴァンに至っては、カタック語を真似て笑わせる余裕をみせ、前代未聞のコラボを楽しんでいる。2人が同じ動きをしても、かたやスペイン風、かたやカタック風。その違いは明らかなのに、スペインの歌手2人とカタックのミュージシャンを合わせた5人の息がそれぞれの波を作りながら舞台から溢れ出ている。ジャンルを超え、お互いを尊重して、スペインにもカタックにも偏らない絶妙のバランスを見せた傑作に、会場は熱い拍手に満たされた。(1月5日Théâtre de la Ville)

ⒸJeanLouisFernandez

2015年の幕開きを飾るオペラ座のプログラムは、スウェーデン王立バレエ団の「ジュリエットとロメオ」。マッツ・エック振付で、木田真理子はジュリエット役を踊ってブノワ賞を受賞している。その彼女の踊りが観れると期待に胸を膨らませてガルニエ宮に行ったのに、あいにくセカンドキャストで、児玉北斗も、ニコラス・エックも見られなかったのは残念だったが、アナ・ラグーナの踊りが観れただけで良しとしよう。でも、このセカンドキャストも悪くない。ジュリエットには日仏ハーフの鳴海玲奈。このバレエ団でも日本人の活躍が目立っているようだ。彼女は小柄だがシャープな動きをするダンサーで、他のダンサー共にレベルの高いバレエ団であることが容易にわかる。

ⒸFrancette Levieux / OnP
マッツ・エック版はタイトルからもわかるように、従来のロミジュリとは少し違う。まず、音楽にプロコフィエフではなくチャイコフスキーを使ったことが大きな違いといえよう。装置はシンプルで、グレーの厚い壁が移動することによってシーンが変わる。有名なバルコニーのシーンも、壁。この黒くて厚い壁が2人の運命を表しているようだった。ストーリーは従来のものとほぼ同じだが、ピアノ協奏曲の序章に合わせて壁の左右で走るような動きを延々とするのがヴェローナ公だと分かるまでに少し時間を要してしまった。ロメオはさらりとしたTシャツ姿で、マキューシオは黒の革ジャン、ベンヴォリオは薄茶色のダウンと、モンタギュー家は中流階級風なのに対して、キュピレット家の人たちはセグウェイを乗り回し、カラフルな繻子の長いマントを羽織るスノッブ系。両家の仲の悪さは周知の事実で、喧嘩が始まれば幾つかの死体が転がるのが常。キュピレット家のパーティーにロメオたちが紛れ込んで、ここで運命の出会いをするのは従来通り。ジュリエットの黄色のチュチュは斬新で、思わず目を見張る。恋に落ちた2人の初々しいデュエットがあり、その後、マキューシオが殺され、ティボルトも死んでしまう。この後にエックの思想が入る。ティボルトが殺されたことを異常なまでに悲しむジュリエットの母。まるで自分の息子か愛人を失ったかのよう。その様子を見ていた父が、パリスとの結婚を拒むジュリエットをなんと銃で撃ち殺してしまう。このシーンは、この日の昼前に起こったシャーリー・エブドの襲撃事件と、親の決めた相手との婚姻前に恋人と通じた娘を殺す宗派による事件とが重なり、かなりショッキングなものとして心に突き刺さった。動かぬジュリエットに駆け寄るロメオ。白昼夢か、一瞬だけジュリエットが生き返ってロメオを優しく撫でる。死んだ人々の身体が土に帰り、新たな生命を生み出すかのように天に向かって手足が揺れるラストが未来への儚い希望を表しているようだった。

ⒸFrancette Levieux / OnP
ジュリエット役を踊った鳴海玲奈が好演し、特にパリスとの結婚を強要する父に凛と立ち、悲しみと怒り、そして嫌悪感を全身で訴える姿には心打つものがあった。また、ロメオを演じたアントン・ヴァルトバウアー の爽やかさや、マキューシオ役のルカ・ヴェテレは長い手脚を生かしたダイナミックな踊りが素晴らしかった。そして、母以上に優しく、誰よりも早く心の変化を感じ取り周りを指揮する乳母を演じたアナ・ラグーナ。いつ見ても素晴らしいダンサーだ。チャイコフスキーの曲がどこまでしっくりとこの物語にはまるかに興味を持って見ていたが、数多くある曲の中からまさにピタリとした選曲に、マッツ・エックの見識の広さを改めて感じた。(1月7日オペラ座ガルニエ宮)

ⒸFrancette Levieux / OnP

ヒップホップだけれどコンテンポラリーに近く、新しいものを感じさせてくれるアントニー・エゲア。その新作は、クラブの一夜での人間模様。たくさんのヘッドホーンが吊られたホール、その後ろにはガラス張りのブース、そして下手にはミキサーとドラム。ソファーにテーブルと、CNDのスタジオはクラブそのもの。
闇に突然響き渡った鋭い音。黒い服をまとった若者たちがヘッドホーンをして、そこから流れる曲に合わせて踊っているのだ。私たちには聞こえない。彼らの頭の中で激しく鳴っている音楽にあわせて、足を踏み、体をよじらせる。黒いコートを脱げば、それぞれに工夫をこらし、今宵の主役になるのにふさわしい服を自信を持って着こなしている。ロングの毛皮に、シースルーのブラウス、ボディコンにラメの服。ため息が出るほどかっこいい奴らだ。うまく人と関わり、避けながら自分の居場所を見つけていく彼ら。踊り疲れればソファーで休み、ブースでは男女の駆け引きが始まる。そんな一夜の物語を覚めた目で見ているひとりの若者。熱気に交わらないその心の内は? 踊るためにこの場に来た若者たちの暴力的とまで言えるエネルギーと、その奥に潜んでいる心理を間髪入れずに交えて綴る秀作。そして、イワン・タルボとフィリップ・パン・ファン・タムの生演奏がいい。ダンスと音楽。この見事なまでに凝縮された空間を楽しんだ。(1月10日CNDパリ)

Ⓒpierre planchenault

イギリスを代表する世界的に有名な振付家に対して失礼かもしれないが、今回見た 「Atomos」は、今までの作品より格段に良かった。以前は、技術を全面に出してスピーディーに動くものの、全体的な作品の流れが感じられず、挑戦的で肌に突き刺さるような印象を持っていたのだけれど、この 「Atomos」はとても穏やかで流れを感じる作品だった。といっても、彼らの動きは高度なテクニックを要するもので、それが無理なくこなされ、流れに乗りながらもサラリと通り過ぎていく後味が好感度増。生まれては消え、再び形を変えては消え去っていくような儚さとともに、心が満たされていく感覚を覚えた。正直なところ、彼の作品でこのような感覚は初めてだった。初めてといえば、ダンス作品で3Dメガネを配られたのも初めて。もちろんダンスそのものは3Dではなく、舞台後半に出現するモニターに描かれた自然の風景が、飛び出し、目に届く直前に黒い四角い点になるというもの。これはこれで面白いけれど、さらなる探求の余地はあると思った。踊りのパートだけでも見ごたえは十分なので、ダンスと3D映像の関係が深くなればもっと面白くなると思う。また、久々に見た高瀬譜希子が素晴らしく、存在感のあるダンサーになっていたことを嬉しく思った。さらなる活躍を期待したい。(1月10日MACクレテイユ)

ⒸRavi Deepres

魔女の罠にはまって深い眠りについたオーロラ姫が目覚めたら、白馬の王子の代わりにヒップホップ少年がいたらどうする? 時代はいつまでも変わらないと思ったら大間違い。昔話もこのめまぐるしく変わる現代を受け入れなくてはならない。というわけで、バロックダンスの大家ベアトリス・マッサンの眠りの森の美女は現代に生き返った姫と召使いの物語。
遊び盛りのオーロラ姫は、はしゃぎまわって召使いを困らせている。結婚相手として現れたのは美しくカールした白いかつらをつけた王子様。絵から出てきたような貴公子だ。おてんば娘も王子の雰囲気に揉まれて楚々と踊る。そこに現れた魔女により深い眠りについた王女と召使い。一転してライトがチカチカつき、サイレンが鳴り響く現代にタイムスリップ。ヒップホッパーもどきの若者が部屋に紛れ込んで、横たわった侍女の横に古めかしい本を見つける。パラパラとめくると、おや、絵とそっくりの人が寝ているではないか。なんと美しい! とブチュ。ところがこれが侍女だった。まさか何世紀も過ぎていたことを知らない侍女は、唇を奪った若者にフェンシングで向き合う。逃げる若者と追いかける侍女。このドタバタ捕物帳劇でベッドから落とされた姫は、ようやく目がさめる。「王子にキスされて目が覚めるのは私のはずなのに、なんで侍女が?」姫の疑問はもっともだ。でも、どこにでも間違いはある。で、若者は若者どうして急速に仲良くなり、姫と若者はハッピーエンドを迎えるというお話。
話の筋もよくできていたし、出演者がたった3人しかいないのを感じさせない早替わりと、何よりバロックダンスと言いながらもコンテンポラリーやヒップホップを交えた楽しい作品に仕上げていたのは流石だ。ダンサーも役にぴたりとはまっている。7歳からの子供向けの作品というけれど、大人もちゃんと楽しめる。ここ数年子供向けの作品が多く見られるようになって、学校の課外授業の一環として劇場に足を運ぶのは良いことだと思う。(1月11日Théâtre National de Chaillot)

ⒸFrançois Stemmer

なんだかとても不思議な感覚だった。幕開きは風に吹かれる男性のソロ。ヒューヒューと風が唸るのが聞こえ、その強さに合わせて身体がくねる。そよ風に身体を任せて揺れていたかと思うと、嵐が来る。突風に吹き流されて倒れても、それでもなお起き上がって風に向かって突き進んでいく。本当に舞台に風が吹き荒れているかのようにリアル。しかもヒューヒューという風の音はダンサー本人が出しているみたい。次のシーンは男女2人が歩くだけ。歩くだけなのだけれど、テンポがずれたり、重なったり。人数が多くなっても規則的でシンプルな動きが続き、機械音のような規則的な音が効果をもたらしている。人形を振り回すかのように操るデュエットは、技術がどんなに進歩しても操れない自然を連想させる。一斉に落ちてきたたくさんの白いビニール袋。雪をかき集めるように移動させて、その吹き溜まりで身体を風が通り抜けるように踊るダンサーたち。ミニマル的でありながら、従来のものとは一味違う作風が新鮮だった。また、シオ・オオタニの衣装がいい。グレーのTシャツに見えたのは素敵な透かし模様のニット。シンプルな中にキラリと光るセンスが見逃せない。(1月12日Aux Abbesses)

ⒸHeidrun Lohr

いつも絶対楽しい作品を見せてくれるドゥクフレの新作。歌ありダンスあり映像ありの盛りだくさん。この人は役者さんかな〜と思ったら見事な演奏を披露してくれたり、ダンサーかと思えは美声で歌う。話題のNosfellは作曲、演奏、ダンスと超活躍。彼の本業はなんなのだろうと、豊かな才能をひがんでも仕方がない。ドゥクフレが惚れ込む理由がよくわかる。とにかく出演者の多才ぶりにはブラボー。次から次へと変わるシーンに客の方が振り回されている感じ。完全にドゥクフレ調に乗せられている。今回は、いつもよりセリフが多いコント系。そこに音楽がかぶさり、見事なコーラス。映像もいつも通り凝っていて、万華鏡ごとき映像や、上下逆さまに映る人影、出演者の顔がどんどん変わり、千手観音ならぬ千足観音まで出てくる。あまりにもたくさんのものが出てきて、いちいち覚えていられないけれど、アイディアがぎっしり詰まった玉手箱だった。欲を言えばもうちょっとダンスが見たかったかな。(1月9日Théâtre National de Chaillot)

Ⓒlaurent philippe

インドのカタックダンサーが、ロンドンでアクラム・カーンと出会ったことが、ひとりの有能なダンサーを生むことになった。昨年パリ郊外のMACクレテイユでフランスデビューしてから1年に満たない期間で彼はものすごく成長したと思う。
「Inked」はダミアン・ジャレの振り付け。暗闇から聞こえる太鼓のような音が、彼の踏む足音だと気がつくまでに時間を要した。光の細い通路に囲まれた中で、膝をついたムーブメントが続く。2本の足で立たないという制約があるのに、動きのボキャブラリーの豊かなこと! 中央に座して厳かに差し出した箱の中の墨を手に塗り、字を書いていく。肩甲骨に描かれた目がギロギロと動き、異生物が監視しているようだった。その墨が悪であるかのように思えたその時、彼は自分の身体を持ってその墨を押し潰す。飛び散る黒い液体。しかし今度はそれを自分の中に取り込むかのように、身体で軌跡を描いていく。たくさんの弧が現れ、それは曼荼羅図のようにも見えた。西洋的でありながら、東洋の雰囲気を持つ作品だった。

「Inked」ⒸSean Goldthorpe
続く「Murmur」は自作自演のソロ。本を読んでいると、そこから数え切れないほどの鳥が飛び出してきて、夢の世界に誘う。本を見ながら描かれる文字。でも「これは自分じゃない。」自分の言葉はこれだとばかりに踊り始める。暗闇で踊る彼の姿は見えないが、気炎が舞い上がるような影が浮かび上がる。スピーディーな回転とぴたりと止まる静止のコントラストが見事だ。夢の世界かと思っていたのに、開いた本から舞い上がる紙吹雪。無数の鳥と雪が舞う幻想的なラストの宇宙的空間が美しい。本が与える未知の世界へのいざない。メディアの普及で本を読まなくなった現代人。本を読んでもネットで取り込んで読んでいる。でも、ページをめくることの喜びを忘れてはいけない。幼い頃にワクワクしながら本を読んだ記憶が蘇る。誰もがそんなことを感じたのだろう、温かいものを感じる作品に、スタンディングオベーションが続いた。実は、初日の公演は、テクニカル上の問題が発生して、舞台が30分ほど中断するというアクシデントに見舞われ、完璧なものを見ることはできなかったにもかかわらず、そのことを謝るオデドラの人柄に大きな拍手がわいた。また、隣の初老の男性がテクニカルの修復中に「カーフィグのPIXELに比べれば…」というようなことを話しているのを耳にしたが、いざ公演が終わってみれば盛大な拍手を送っている。映像を使う作品は多いけれど、成功するものは少ない。ダンサーとしてだけでなく、振付家としても大きく成長したオデドラの今後の活躍が楽しみになる。(1月10日MAC Créteil)

「Murmur」ⒸSean Goldthorpe

パリ18区にあるエトワール・デュ・ノール劇場は、若き才能を紹介するフェスティバルを開いている。このオープン・スペースもそうだ。今夜は、フランスのアイナ・アレグルの「Délices」とロテュ・エデコーリの「Tournures」、そしてロシアのアンナ・シェクレイナとアレクダンドル・フロロフの「My love / My Life」
フランスのアイナ・アレグルの「Délices」は、ビデオ作品。生きていることの青足を強調するかのように肌と肌がふれあう。それはスタジオの中であったり、森の中であったり。自然の中に溶け込む身体が美しい。
続くロシアの Anna Schekleina & Aleksandr Frolovの「My love / My Life」は、それぞれのソロ。2人ともよく鍛えられたダンサーで、特にアンナ・シェクレイナはクラシックバレエを基礎とした体のように思えた。綺麗なポーズと崩れたポーズを並べたり、子供を抱くような仕草や恋人を連想させるようなジェスチャーが、ムーブメントの中に組み込まれている。そして、アレクダンドロ・フロロフは、ヒップホップをベースに生と死を語る。2人とも余計な装飾を省いてシンプルに、クールに描いているけれど、そこに新しいものを見つけられなかったのが残念だった。

「My love / My Life」ⒸElena Rezvova
最後のロテュ・エデコーリの「Tournures」は、うまいのか下手なのか、面白いのかつまらないのかさっぱりわからない不思議な感覚だった。トランペットを吹く人の横で、、黙々と木の枠を組み立てる人がいて、彼らに関係なく男女が同じ動きをしている。男性は服を着ているが、女性は全裸。舞台の一部が赤く染まり、黄色い蛍光灯がつき、ピンクのチュチュが置かれるけれど、それらの間に、そして舞台にいる人となんら関係を持たない。ダンサー2人の動きは長いフレーズが方向を変えて繰り返されるが、なぜか時間が経つうちに面白く見えてくる。しばらくすると女性が服を着て男性が服を脱ぎ、再び同じムーブメントを繰り返す。今度は全裸になったトランペッターが踊り、枠を組み立てていた男はそれらをあっさりと壊してしまう。そして別の木の枠の下でゆっくりと動き出す。何かが始まりそうで始まらず、でも予想もしなかったことが起こる。これを面白いというのかつまらないというのか、私にはわからないけれど、この曖昧な感覚を楽しんでいたことは確か。(1月13日 L'Etoile du nord / Open Space.<OS-3>)

「Tournures」ⒸparJulieVerlinden

たった30年で幕を降ろしてしまう青山劇場。形状がユニークで話題の円形劇場やこどもの城とともに1月31日で閉館した。その最後の公演が青山バレエフェスティバルだったのは、この劇場を仕切った高谷静治氏へのオマージュか。
日本のバレエ作品を見るのは20年ぶりかそれ以上なので、日本のバレエ界トップのダンサーたちの饗宴を楽しませていただいた。休憩を挟んだ2部構成で、上演時間3時間。クラシックあり、コンテンポラリーありのバラエティーに富み、バランスのとれた構成も素晴らしかった。プログラムを読めば海外経験のあるダンサーも多く、日本人としての気質と海外での経験が各人の個性となって発揮されていたのを見て嬉しく思った。
幕開きは、矢上恵子振り付けの「組曲PQ」。男性ばかり12人というのは流石に迫力がある。しかも古典作品に使われている曲をつなぎ合わせて、原作のイメージに関係なく振り付けを施してある。音楽をきっちりと分析した振り付けは魅力的だ。迫力あり、笑いありで幕開きにはふさわしい作品だった。
続く「ダイアナとアクティオンのグランパ・ド・ドゥ」では、中家正博のジャンプに見惚れた。ジャンプの頂点からさらに伸びが見えるというダイナミックな踊りで、舞台が狭く見えるほどだった。栗原ゆうは安定した踊りで見せた。
「Flower song」で堀内充の踊りが見られたのは幸運だった。若い頃と変わらぬ安定したテクニックとシャープさに増して、内面の心理描写がうまく、さすが、とおもわず声に出た。
酒井はなと西島千博は粘りのある踊りでシェヘラザードのグラン・アダージオを濃厚に見せた。
一部の最後を飾ったのは、佐多逹枝振り付けの「ソネット」。高部尚子、足川欽也、坂本登喜彦のゴールデントリオ。青山劇場創設当時にバリバリの現役だった3人が、1995年の初演当時に作られた前田哲彦デザインを再現した衣装で踊る。彼らが踊る横で、この30年の思いが走馬灯のように流れる。彼らは当時のようには踊れない。でも、そこには別の大きな意味が隠されている。まだ踊ってる? まだ踊れる? いや、これからも踊り続けていくこの3人に、心から拍手を送りたい。
第2部は、西田佑子と横関雄一郎を軸とするライモンダで始まったが、それまでの明るい雰囲気を一瞬にして引き締めたのが、小尻健太振り付け出演の「not Yet」。暗い舞台に当てられた一筋の光。黒いボールを見つめる小尻の後ろに渡辺レイが現れる。2人ともNDTで活躍しただけのことはある。キレの良い踊りはイリ・キリアン作品を踊りこなした身体ならではだ。
海外経験の長い2人の奥の深いダンスの後は、これまたガラリと雰囲気の変わる作品で、酒井はなが踊るマルコ・ゲッケ振り付けの「Mopey」。バッハの軽快な音楽に乗って、酒井はなが子供が無邪気に遊ぶように踊る楽しい作品。振り付けも良いけれど、それを踊りこなした酒井が全く素晴らしい。古典よし、コンテ良しで、さすが日本のトップ。
マノンを雪の降りしきる荒野に置き換えたキミホ・ハルバート振り付けのパ・ド・ドゥは、木枯らしが吹きつける中、安住の地を求めて雪原を彷徨うカップルを描いた。ハルバートの崩れ落ちる身体を抱き寄せる佐藤洋介。おもわず涙を誘う作品に仕上がっていた。
そして、金森穣振り付けで井関佐和子が踊る「Under the marron tree」。大きなテーブルの下からドサリと落ちた女は、帰らぬ人を待ち続ける。思い出と現実の狭間に揺れる感情が心に突き刺さるように伝わってくる。見事な心理描写、そして机と椅子という簡単な装置が深い思い出を見事に連想させる演出、まさに日本を代表する振付家だ。もちろん、作品の意図を身体の芯に染み込ませて踊りこなした井関も素晴らしい。この2人がこれからも日本のダンス界に新たな息吹を吹き込んでくれることを期待したい。
最後は篠原聖一振り付けの「ロミオとジュリエット」。下村由理恵はまさに初恋にときめく少女。なんと初々しい。佐々木大の確かな愛に支えられたバルコニーでの愛の踊りは、最後の公演にふさわしい踊りだった。
青山劇場創設当時から劇場だけでなく舞踊の発展に惜しみない努力を払った高谷静治氏の偉業に思いを馳せながら、間もなく取り壊される劇場を見上げた。(1月29日青山劇場)
※編集部より
青山バレエフェスティバルの舞台写真はセーヌ97号でも掲載予定です
公演予告

日本でも大きな話題となった野田秀樹の「エッグ」がパリのシャイヨー宮に上陸する。なぜか? この作品には欧米人の知っている日本と知らない日本が混在しているからだという。シャイヨー宮のディレクターが日本でこの作品を見て、出演者の楽屋を回ってパリ上演をオファー。その熱気に促されて、初演のメインキャスト8名が再結集。妻夫木聡、深津絵里、中村トオル、秋山菜津子、大倉孝二、藤井隆、橋爪功、そして野田秀樹という豪華メンバーで、これは今の日本の演劇事情では奇跡的なことらしい。しかも、総勢50名を引き連れての大掛かりな公演は、夢の遊民社にとって25年ぶりという。
内容は、「エッグ」と呼ばれるスポーツでオリンピック出場を目指す選手たちと、エッグの花形選手の恋人の苺イチエというアイドル歌手の歌で綴られるが、その後ろには日本の戦争の歴史が組み込まれる。この描写が物議を醸しているようだが、それは見てのお楽しみ。もうひとつのお楽しみは、深津絵里の歌唱力。全編を担当したという椎名林檎の曲を見事に歌いこなす。
スポーツの祭典と戦争はナショナリズムという意味でどこか共通するものがあるのではないかという野田氏。イスラム国の台頭や、ウクライナ・ロシア戦争、シリアの内戦、そして人種差別問題が身近なヨーロッパで、そして欧州と日本の戦争観の違いがパリジャンにどう映るのか。
公演日程:3月3日〜3月8日 パリ国立シャイヨー宮劇場


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