ユーロ・ダンス・インプレッション

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今年のランコントルは5月13日から6月5日までパリ郊外93県の6カ所の劇場で行われた。全ての作品は見られなかったが、見たものを紹介すると…

マイケル・ローブ「アンデルセンプロジェクト 寓話とコステューム」(オランダ)

オランダでは有名な人だそうだが、フランスでの知名度はまだまだ。これはアンデルセンの童話をパロッた作品。自分の幼少の頃の思い出のようにマッチ売りの少女の物語を涙ながらに語った女性は突然裸になり、修道女の衣装の女性はちょっとポルノチックだったり、衣装の早替えをしながらアンデルセンの童話をおもしろおかしく語るのだが、私にはその表現方法に好感が持てなかった。このタイプの作品はフランスにはあまりないので、慣れないものに戸惑ったのかもしれない。

ラ・フォンテーンヌの寓話

ラ・プティ・ファブリックが提案しているフォンテーンヌの寓話シリーズ。20分前後の作品で子供から大人まで楽しめる作品が多い。これまでにどれだけの作品が出来ているのかわからないが、10作品はあると思う。ヒップホップあり、コンテンポラリーあり、映像ありと、振付家が原作から様々にイメージを膨らませて創っている私のお気に入りのシリーズだ。

ボイジー・チェッワナ「水に映った自分の姿を見る鹿」(南アフリカ)

アフリカの鹿のお面が空に浮かび上がる中、見事に動物的な仕草をしたゴンブロイッチの演技が光る。作品的にはもう少し原作を膨らますと面白かったように思った。

ダニエル・デノワイエ「度をすごすな」(カナダ)

小さなモミの木を舞台にたくさん並べての作品だが、これらを移動するのに時間がかかって、作品的に何を言いたかったのかわからない。小道具が多すぎて何も伝えられないことが目的だったのかと思ってしまったりして。

リア・ロドリンゲス「好みのうるさい人たちへ」(ブラジル)

自分の腕を縛り、床に転がっているマジックを足で取り、寝転んでタイトルを書くダンサー。この辺りからこの作品は普通でないことが感じられる。2人の女性ダンサーの間で演じられる作品は短いシーンが次々と繋がっていくが、歌を歌ったり取っ組み合いのけんかをしたり、ブルーの歯磨きで歯を磨いて吐き出した水を飲んだり、ハチャメチャ状態。特におかしかったのは4つのことを同時にするとどうなるかということ。蟻とキリギリスと亀とエディット・ピアフを同時に演じたらどうなるか想像出来ますか? これは見てのお楽しみ。


(C)LUC RIOLON

アルバン・リチャード「分散」(フランス)

上手と後方をアルミのような壁で仕切った舞台。不安定に明かりが薄く入り、シンセサイザーの音が聞こえる。薄暗い中で白いシャツのダンサーの塊がうごめいているのが見える。やがて、1人が飛び出して舞台を走り、元の集団に戻る。一種のマスゲーム的な構成となっていて、ダンサーは走る、走る。団体と個人、点と線、軌道とそこからの逸脱。面白い構成だが、最初から最後まで同じような動きのパターンなのが気になった。常に薄暗かった舞台が、最後に壁の後ろからの強いライトで照らされたのが新鮮だったように、動きにもどこか1カ所大きな流れの変化があるとメリハリが出たのではないかと思った。

サスキア・ホールブリング「YOUR BODY IS THE SHORELINE」(オーストリア)

毎年このランコントルに招待されているのは彼女だけなので楽しみにしていたが、正直なところひどくがっかりしてしまった。ラジオのチューナーを合わせるような音が舞台を移動する中、Tシャツとジャージというラフな格好のダンサー達が、カセットコーダーを持ってゆっくりと入ってくる。その雰囲気のせいか、装飾が少ないせいか、舞台が異常に広く感じる。1人でする動きと、そこに他人が関わるとどうなるかというのがテーマのようだが、どちらかというとゆったりとしたレスリングのような動きが続き、他人が介入することによって阻まれる自分の意思と行動を表現したかったのだろうが、絡まり具合が中途半端で、そこから発展するものが感じられなかった。人と動くより、松根充和が大きな銀色のクッションと絡まるところが面白かった。私には、昔の動きの多かった彼女の作品、あるいはソロで見た彼女ならではの存在感が印象に強く残っているのだが、数年前から作風が変わり、内面の追求や、意思に関わらず動く身体と他者との関係等を追求するような作品が多くなったように思うが、それがどうもダンサーの独りよがりに終わってしまい、それ以上のものが見えず、動きの羅列に終わってしまっているような気がしてならない。かえって小さいスペースの方が面白かったのではないか。


(C)DANS KIAS

エマニュエル・ヴォ=ダン「白い光」(フランス)

白いリノリュウムと白い壁のがらんとした空間に、緑の蛍光灯が色を落とし、不安定につく裸電球の明かりがうらぶれた空間をイメージさせ、3人の女性が風に流されたかのように入ってくる。不安定に走り、歩き、さまよう様は、黄、赤、青、緑という原色の照明と対照的だが、その明かりが床まで行き届かないほどの薄暗い中では、意識が漂っているという印象を持たせる。木琴の現代音楽が流れる中、現代の方向性を失ってしまった人々を描いているように思った。


(C) Emmanuelle vo-dinh

ジョージ・アペックス「昔々…」(フランス)

ランコントルは若手の実験的な作品が選ばれるのかと思っていたら、中堅のアペックスが出ると聞いて驚いた。作風ががらりと変わったかと期待したが、今までと変わらず。踊りながら言葉を発したり、変わった衣装をつけたり、アイディアいっぱいの装置があったりで目先は変わるのだが、それ以上の追求がなく、テーマが明確に見えてこなかった。

クリスチャン・リッゾー+ブルーノ・シュヴィロン「…/…(b)」(フランス)

リッゾーは、身体と物体の展示をすることでその個性を確立した人だが、即興と聞いて興味がわいた。ベースギターのシュヴィロンが弦をつまんだり叩いたり、メロディーを奏でる中、リッゾーが動く動く。シャープな動きと存在感に、彼はすばらしいダンサーだったことを改めて納得。だって、最近は振付けに徹して踊りを披露してくれないし、自身のソロだとしても身体展示なので、彼がこれだけ踊っているのを見れただけでもう満足。しばらく踊っては、舞台袖においたノート型パソコンで照明をコントロールするが、やがていつもの物体及び身体展示になり、白い面、豚の頭、銀色の紙吹雪、ろうそく等が出てくるにつれて、彼は踊らなくなってしまう。その存在感とアイディアは個性的で面白いが、私は装置や小道具のない、シンプルな彼のソロが見たい。

ホーマン・シャリフィ「我々は思考の中にこの現実を維持し損なった」(ノルウエー/イラン)

アラビアの絨毯が映像として後ろの壁に映る中、シャリフィがゆっくりと歩いて出てきて、突然何かに取り憑かれたように踊り出す。ダンサーとしては考えられないほど太っているが、身体は驚くほど柔らかい。しばらく激しく身体をくねらせたかと思うと突然やめて、ノート型パソコンに近づき、照明と音楽を変更する。突然客電がついたり、突然踊り出して、突然やめ、最後も突然音楽を止めて終わった。これだけ突然が続くと安心して見ていられない。それぞれの突然が何を意味するものなのだろうかと、こちらの思考回路は激しく動く。絨毯の映像といい、国籍といい、この作品は宗教に基づいたトランス状態を表しているのかと、政治的、宗教的作品だと理解していたが、本人に聞いたらその意思は全くなく、踊りたくなったから踊ったし、やめたくなったからやめただけだと言われてしまった。作家の意識とはほど遠いところで作品を見ていたらしい…。

ナセール・マルタン=グッセ「ポップライフ」(フランス)

この人も昨年日本公演をしているし、サシャ・ワルツやジョセフ・ナジなどの作品を踊っているのでフランスではかなり名の知れたダンサーだけに客席は満席。すごく身体の利く人なのに、自作となるとちょっとミーハーな身体展示的作品を創るという印象があったが、これもその手の作品で、正直言っていつもと同じ傾向なら、ランコントルに招待される必要はなかったのではないかと疑問。まあ、クリスチャン・リゾーやジェローム・ベルがこれからの主流になっていくのだろうから、その意味では呼ばれて当たり前なのかもしれない。さて、作品は昔のポップミュージックにマンガチックな映像を合わせ、人形ぶりや、小物で状況を作っていく。縄跳びをしたり、鹿の頭を持ってきたり。リッゾーの豚の頭とは関係があるのだろうかとなどと思いながら見ていたが、ランコントルは今までに見たことのないものを見せてくれると思い込んでいた私には、彼のこの手の作品は既に見ていたので、新鮮味を感じなかった。

ティエリー・ド・メイ「ライトミュージック」(ベルギー)

ミッシェル・アン・ド・メイの兄で、ローザスと共に活動をしたこともあるベルギーの音楽家。写真を見て何をするのか予想はついたが、これが思っていた以上に面白かった。いわゆる目に見えない音の線に触れると様々な音が出るという仕掛け。趣旨としては決して新しくはないのだが、演じたジャン・ジョフロイがいい味を出していた。暗がりの中、ダンサーらしくないどちらかというと演劇系の彼は、舞台中央にまっすぐ立ち、おもむろに手を挙げた。照明効果で手首だけが舞台に存在し、その手が空を舞い、動きの変化に伴ってサンプリングの音が出る。手の軌道は、後ろの大画面に白く映し出される。見えない五線譜をなぞる動きと、その百分の何秒後かに聴覚に入ってくる音と、さらにその百分の何秒後かに視覚で捉える映像と、その残像。画像を確認した時には既に手は次の動きにあり、その微妙な時差に引き寄せられる。あるいは、見えないものが聞こえ、映像として見えるのが面白いのかもしれない。たった20分の作品だったが、見応えがあった。


(C)Thierry de mey

アンディ・ドネイス「エレクティカ」(ベルギー)

最近はパフォーマンス的な作品が増えているからか、この作品は久々に踊りを見たという感じだった。がらんとした舞台に突然、つんざくようなシンセサイザーのガラガラした音とピアノの低音を引っ掻くような音がする。ベージュのワンピースを着たダンサーたちの白い影が揺れている。下手後方の場所だけを使っての、繰り返しの多い動きだが、ダンサーがよく踊りこなしているからか、全く飽きないし、白っぽい床が足の動きによって色がはだけて、やがて黒く光るリノリュウムが見えてくるのも面白い。繰り返しながら微妙に変化する動きとそれに伴う床の軌跡と色の変化。また45分近くもの間動きっぱなしのダンサーの体力にも恐れ入る。ピアニストが異常に興奮してはまっているのが気になったが、時間が経つにつれて舞台全体に広がっていく動きが無限の可能性を示唆しているようで、ここまではあっという間に時間が経った。この後逆光になり、クライマックスで終わりかと思ったら、ダンサーがポーズをしたまま動かなくなってしまった。よく見れば微妙に動いているのだが、その速度が前半の動きと余りにも差がありすぎるため、見ている方がその速度に戸惑ってしまった。最後にまた盛り上がりの動きがあるのかと思ったら、何もなくそのまま終わってしまったので、消化不良を起こした感じ。前半だけで十分に見応えがあったのにと、ちょっともったいないような気がした。

アンドレ・ジングラス「ザ・リンデンメイヤー・システム」(オランダ/カナダ)

暴力的といえるほどに動く動く。ここまでやってくれるとちょっとハラハラするけれど気持ちがいい。作品に参加するという意味からか、観客はヨーロッパ国籍かそうでないかのシールを胸に張られ、折り畳み椅子を手に結びつけられ、椅子の高さによって4班に組み分けされ、座る場所を限定されてしまう。引き裂かれたカップルや親子もいて、ちょっとしたパニック状態。劇場のリハーサル室か倉庫で、木材が立てかけてあったりするラフな感じの会場は、作品にマッチしている。中央に集められた観客の回りで、彼らはあたかも観客が存在しないかのように暴れまくる。まるで格闘技をしているかのように相手に向かって飛びこみ、捕まえ、ぶつかる。すぐ横で繰り広げられるので、そのエネルギーと緊張感がダイレクトに伝わってくるし、我々の中に飛び込んでくるのではないかとハラハラドキドキ。一つのシーンが終わると、何事もなかったように1人がマイクを持って、テレビの司会者のようにまくしたて、そして我々は移動させられる。2人羽織のような動きあり、軍隊のような動きあり、死体のように積まれた肉体あり、アイディアとしては面白いが、あまりにもたくさんのことを伝えようとして、焦点が散漫になってしまったような気もした。最後に配られたアンケート用紙が何の意味も持たない質問だったように、この世の中で行われていることは、人間が人間として生きていくための本当の意味において意味を持たないものなのかもしれない、そんなメッセージを私は受け取った。


(C)HERMAN SORGELOOS

マリア・ドナタ・ドウルソ「私的コレクション」(フランス/イタリア)

身体展示的作品だが、雰囲気が宇宙的で神秘的。2枚のガラスのテーブルの間に身体が浮かんでいる。蛍光灯の青白い明かりと無線から流れる雑音ような音のせいか、天体の輪に浮かぶ物体というようなイメージを受けた。ゆったりとした動きと常に空中に浮かぶ影のような身体。美しい作品だった。

ボイジー・チェッワナ「カット!」(南アフリカ)

このところよく名前を聞くので気になる人だった。靴や布やカツラが下手に無造作に置いてある。2人のダンサーと2人のギタリストからなる作品で、踊りはリモン系に時々アフリカンのような動きが混ざる。よく動くのだが、なぜか途中から飽きる。チェワナ自身も踊り、確かに上手いダンサーなのだが、作品を煮詰めていないような感じがした。彼自身の動きは即興なのか、どこかに戸惑いがあり、動きも少なかったためか、何かを考えながら動いているように思えた。相手の女性とは一緒に踊ることもなく、この女性はよく動いていたが、動きに発展性がなく、何を言いたいのかわからないまま終わってしまった。ミュージシャンは良く、奏でる音楽の一部が沖縄民謡アフリカ版のようで、音楽は世界共通なのだと妙に感心した。

ロセール・モントロー・グベルナとブリジット・セス「エピローグ、取るに足りない告白」(フランス)

30分押しの夜十時半から劇場の地下の奈落というか倉庫で始まった公演。しかもここはサンドニ。帰りの電車と安全性を心配しながら見た公演だったが、めちゃ面白かった。踊るというより、芝居に近い作品で、白衣を着たおばさん2人の漫才ダンス。どこまでが本当だか知らないが、19世紀のマックス・オーブという人の本を朗読するところから始まる。この本の内容を本気にしてしまうところから起こる騒動。しゃべりと踊りの笑いを取る間がうまい。また、踊りそうにない人が踊るというのもちょっとした驚き。

(C)BRIGITTE EYMANN

以上が今年見たランコントルの作品。正直なところ、いつものこれがダンス? と思わせてしまうような一風変わったものや、過激な作品が少なく、全体的におとなしく終わってしまったような気がした。今年は日本のカンパニーが招待されていなかったのは残念だったが、横浜セレクションを見ての(全日はみていませんが)感想は、日本人の作品はきれいにまとまりすぎていて、ガラスの額縁に入った絵を見ているような感じがしたが、こちらの人は、体当たり根性なのか、エネルギーがダイレクトに伝わってくる。これが大きな違いだと実感した。踊りが上手いとか下手とかいう以前に、その役になりきってしまうところや、段取りが段取りに見えないくらい相手とのコンタクトを毎回真剣に取るところがプロフェッショナルなところだと思う。観客にこびることも、上手く見せようということもなく、ありのままの姿が見えることがよくある。これは決してそのダンサーの日常が見えてしまうということではなく、素直にその役と状況になりきって踊っているのだという感じを受ける。あるいは、客席の動きや反応、例えば、客がどんどん帰るとか、携帯電話が鳴るとか、野次が飛ぶとか、予想外の行為があった時でも、その状況を瞬時に捉えて、それに対応する即興能力がある人が多い。そのために、かえって客を引きつけたり、雰囲気をまとめることになったりする。この点をもう少し追求するともっと臨場感が出るのではないかと思う。コンテンポラリーダンスはもっと土臭かったり、日常に近くてもいいのではないか。

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