
テアトル・ド・ラ・ヴィルの大舞台にたった50人の観客だけを入れる30分の贅沢な公演。しかも1人ずつしか会場に入れてもらえない。薄暗い迷路のような狭い通路を1人で歩く心細さ。かなり歩いたところで円形の空間に出てほっとするがここもほとんど真っ暗。壁に沿って並べられた椅子に全員が座ったところで、目の前の円形の舞台の円周をメトロノームのようなものがカチカチと音を立てて動き始め、針の先端のランプが不規則に揺れる。その数多数。まるで触角が光る芋虫の行進だ。しかも、舞台の円周全体を覆うほどのメトロノームの音は結構うるさい。その内側に円柱形の檻のようなものがうっすらと見える。20センチ間隔の縦のラインに沿って蛍光灯の白い明かりがつき、それがメリーゴーランドのように回りだし、その中央に人が見える。身体をくねくねと動かし、腕をまわしている。光の縦線がたくさんついてはいつの間にか数本になる。白いはずだった衣装が横しまになる、先ほどまでたくさんあったメトロノーム行進団が次第に消えていく不思議。ダンスというよりは光の祭典。今までの作品に比べて動きの範囲が少なかったせいか、少しもの足りない印象が残ったが、光と影を追求する特異な世界を繰り広げた。(11月3日テアトル・ド・ラ・ヴィル)

つま先部分の下にどくろが付いた超ハイヒールと、宝石や装飾でごてごての衣装とそれに負けないメークのコーエンの映像。そして次の場面では、黒のスーツに骸骨のハイヒール姿でニューヨークのウォールストリートを歩き、42丁目の交差点でしゃがみ込み、骨を売る店の内部が映し出される。骨1本が29ドル、どくろは895ドル。歯もある。インパクトの強い映像に思わず身構えてしまう。一方舞台では、十字に並べられたオブジェを足を持ち上げられないほど重さがあるがっしりした靴で踏みつぶし、どくろヒールで不安定に歩き、ひもを首にかけて吊り下がる。彼ならではの辛辣な目で生と死をとらえたパフォーマンス。ダンスとしてみると不満足かもしれないが、兄弟を自殺と言う形で失った体験から生まれたメッセージは強烈だ。(11月4日ポンピドーセンター/フェスティバル・ドートンヌ)

(C)Marianne Greber

パリ・オペラ座バレエ団は古典も現代作品も踊りこなす素晴らしいバレエ団になったとつくづく思った。身体の使い方も気持ちの持ち方も全く違う作品を踊りこなすのは並大抵のことではないと思う。
まず、ベンジャマン・ミルピエの「AMOVEO」。2006年の初演と大きく変わったのが衣装。カラフルな普段着風の服装が舞台を明るくし、軽いタッチのステップに合っていたし、初演時にしっくり来なかったホリゾントの幾何学模様の映像も、すんなりと見ることができた。フィリップ・グラスの「浜辺のアインシュタイン」をベースとしているので、当時のミニマルダンスが懐かしい。ニコラ・ル・リッシュとオーレリー・デュポンの組み合わせより、もっと若手を起用した方がよいのではないかという不安をよそに、軽快な流れの中に軽やかな笑い声が聞こえてくるような作品に仕上がっていた。

「AMOVEO」(C)Agathe Poupeney
ニコラ・ポールの「REPLIQUES」は、4組のカップルが幻想的に踊る。幻想といえども、ジゼルのような古典的なものではなく、現代の若者の心の奥に潜む葛藤が描かれていて、ベージュのジョーゼットの衣装の下からのぞくオレンジ色のインナーが内に秘めるエネルギーのように感じられた。2枚の紗幕によって3つの異なる次元を描き、きれいにまとまっていたが、もう一味ほしいところ。

「REPLIQUES」(C)Agathe Poupeney
ウエイン・マックグレゴールの「GENUS」は2007年に初演されたものの再演。これは初演時の印象が強かったせいか、踊りこなしているものの前回以上の感動はなかった。安定し、余裕を持って踊っているために、安心してみていられることが感動につながらなかったのかもしれない。シンプルでいながら大胆な装置と、それに飲み込まれることなく踊りきったダンサー達に大きな拍手が続いたのは当然のことだった。9月にジゼルの完璧な美しさに心を奪われ、その2ヶ月後には現代作品を見て感動する。オペラ座バレエ団のレパートリーの広さに満足した一夜。(11月10日パリ・オペラ座ガルニエ宮)
「GENUS」(C)Agathe Poupeney

現代の日本人からは容易に想像できないと思うが、世界には言論の自由が許されない国がまだまだある。リニェクラが住むコンゴもそうらしい。「明日なんか知らない、明日はどうなるかなんてわからない。」ラップのように語りかける言葉は強い。キンキラキンのスーツ、アフリカ特有の生地で作った衣装、いかにもロックンローラーらしきロングコート、かと思えばコインランドリー用の安物の袋を改造した衣装。エレキギターが泣き、人が叫び、取っ組み合いのけんかをし、椅子が飛ぶ。ダンスというよりは音楽の要素が強いパフォーマンスと言った方がよいかもしれない。未来はあるのかという問いかけに、また何かが始まるさ、という答えと青空。アフリカの政治的な作品は見ていてつらいものがあるが、希望を持つ姿勢に会場からは多くの拍手が寄せられた。また、フラーム・カパヤの素晴らしいギターが聴けたのは大きな収穫。(11月12日メゾン・デ・ザール・クレテイユ/フェスティバル・ドートンヌ)

ポップカルチャーあるいは映画のようなダンス作品を創るマルタン=グッセが眠りの森の美女をどう料理したかというと、子供から大人まで楽しめる佳作だったと言いたい。好きだなあ、この手の作品。アイディアと風刺とパロディがぎっしり。まずは妻の座を狙った女の戦い。女の恨みは恐ろしい。そして、年頃の娘に馬鹿にされ、ケリを入れられても娘はかわいいと思ってしまう父心の寂しさ。そして花嫁の夫に嫉妬する父親。この構図は世界共通なのでしょうか。美術は学芸会みたいなエンジ色の幕に、ベッドに早変わりするお立ち台。影絵と映像とミニチュアのお城の模型が状況を語るのが、コンパクトで的確。あちこちにちりばめられたパクリといえば、マイケル・ジャクソンのスリラーや、B級ホラー映画みたいな魔女と王子の取っ組み合い、いかにもハッピーエンドな終わり方は60年代の映画だし。マルタン=グッセらしい眠れる森の美女を、大いに楽しませてもらいました。(11月18日シャイヨー劇場)

(C)ArnaudVasseur

大駱駝艦が小林裕子の「ユピタース」と村松卓矢の「どぶ」を上演した。「ユピタース」は出演者全員が女性、「どぶ」は男性なので、男女対決のようなかたちだったが、多様性を見せたことでカンパニーに対する関心が深まったという印象を持った。「ユピタース」では、小林の存在感とよく鍛えられた身体に目を見張るものがあった。「どぶ」では、大駱駝艦らしいオチと笑いが好きだった。死体との性行為から生まれてくるのはカボチャだし、日本髪はゴム長靴でできているし、権力者の衣装はお客さん用の豪華な掛け布団だし、小物はそんじょそこらで簡単に買える物ばかりだし。この庶民的感覚が好きだったけれど、これがフランス人にはわからないのが残念。ワークショップや講演会、あるいは質疑応答などが付随すればもっと面白くなったのではないかと思った。(11月19日パリ日本文化会館)

「ユピタース」(C)Junichi Matsuda

「どぶ」(C)Junichi Matsuda

自分史、記憶。それはわかる。文化大革命の渦中にいて、国のために尽くした青春時代。その時代を生きた人のインタビューがあり、自身の幼少時代の写真を交えて語る。ドキュメンタリーとしては面白いかもしれないが、ダンス作品としてみた場合、そこにダンスはあったのだろうかという疑問が強く残った。(11月24日テアトル・ド・ラ・シテ・アンテルナシオナル/フェスティバル・ドートンヌ)
(C)Ricky Wong

POROROCAとは、アマゾン川に逆流する強い波のことで、物が壊れる音も意味するそうだ。舞台では、静かに登場したダンサーたちが突然手に持っていた荷物や椅子を放り出しながら叫んでいた。そして、けんかしているのか戯れているのかさえわからないような、入り乱れての混乱の中に、なにげに秩序が見え隠れする。それが繰り返され、最後はオレンジを食べ、においが会場に充満したところで笑いながら絡み合い、退場していく。人間版ポロロッカだが、ロドリゲスにしてはインパクトが弱いように感じたのは、舞台がきれいすぎたからか? 倉庫みたいなところで、自分の上に物や人が飛んでくるのではないかとハラハラしながら見た方が面白かったかもしれない。(11月25日アベス劇場/フェスティバル・ドートンヌ)

(C)Sammi Lanweer
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